俳句考(4)

・俳句講座第一回目の課題3句投函しました。上5に「や」のついた句。それ以外の形の句は当分作らないようにとのきついお達しです。基本に忠実であるべしということでしょう。

雑誌や新聞には上5にやのつく基本形の句はほとんど見ないんですけどね。

 

よく見ると句の評価蘭に優良可不可の文字がある。ここに丸がついて帰ってくるようだ。不可だったらどうしよう。十手返上ですね。


・俳句の歴史(ユーキャン俳句講座第二講より)
講座第二講は俳句の歴史
系統樹でいうと俳句の大樹は万葉などの和歌にあります。和歌は(5・7・5・7・7)を一人で作るのですが、これを複数の人で順番に作っていく連歌という形式が生まれました。

 

具体的には次のようなやり方です。まず①のひとが最初の5・7・5を作る。②の人がそれに7・7を付ける。③の人はつづけて5・7・5を付ける。以下これを延々とやるわけです。なんと百個も。別に百人いるというわけではなく、少人数で順繰りにやるのが普通です。
和歌⇒5・7・5・7・7。
連歌⇒5・7・5/7・7/5・7・5/7・7・・・・・・・・・


連歌鎌倉時代後期に盛んになり、室町時代に全盛期を迎えました。連歌の内容は万葉の和歌が元ですから、とても優美で優雅な言葉使いや歌の内容になっています。


さて、江戸時代になって連歌と全く同じ形式の「俳諧」という文芸が起こってきました。何が違うかというと内容が庶民的なものになってきた。言葉もお公家さんの雅なものから江戸庶民の日常語になり、滑稽を含んだ内容になってきました。この俳諧が実は俳句のルーツなので俳諧を少し詳しく見ていきます。
俳諧
①の句 5・7・5 発句(ほっく)という。
②の句 7・7   脇句
③の句 5・7・5 第3句
④の句 7・7   第4句
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最後の句 7・7  挙句(あげく)


普通俳諧では36句がワンセット。「挙句の果て」、というのはこれがルーツです。
さて、ここからが正念場。はじめの句を発句というのに対して、それ以降挙句の一つ前までの句を平句(ひらく)と呼びます。発句と平句には重大な違いがあります。

 

発句は一座に対してこれから始めますよというご挨拶の意味を含めて、季節の語を入れるというルールが確立された。発句のもう一つのルールは句を完結させるために切れ字を含むということです。

 

では平句の場合は。句の内容を分かりやすくするため切れ字を使ってはいけない。季語も普通なしです。つまり、発句は開始のご挨拶ですから少し気取って詩的な句とする。そのあとは、変化が分かりやすいように内容重視の平句(散文的)を順次つけて、その粋な付け方を楽しんだわけです。

 

ですから、芭蕉も一茶も蕪村もみな仲間を集めて発句も平句も作る俳諧をやっていました。彼らは平句の名手でもあったわけです。そして現在芭蕉、一茶、蕪村の句とかいって私たちが見ている句は、それらの俳諧から切り取った発句なのです。


さて、時は明治に移りいよいよ正岡子規が登場します。子規は大変な勉強家で、過去の俳諧を徹底的に研究しました。その結果次のような結論に到達した。


「詩的である発句は文芸であるが、そうでない平句は文芸でない。」
ということで俳諧から発句のみを残し平句を切り捨ててしまった。

そして、その俳諧から独立した発句を新しく俳句と命名したのです。なので、俳句には発句の伝統を引き継いで、季語と切れ字が必須の要素となっています。


ところで、平句の形式が独立して発展したのが川柳です。だから、川柳には季語も切れ字もありません。川柳とは人の名。平句を付ける名手で平句の選者として高名だった人です。その選に通った平句を川柳と呼んだのが「川柳」の始まりと言われています。


図にまとめると以下のようになります。(ユーキャン俳句講座)

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このように俳句は座の文芸(愛好家が一座に集まって和気あいあいと楽しむ)俳諧が元になっていますから、一座の者が即座に共感できる分かりやすくすっきりした内容でなければなりません。

 

そこが一般の詩と違うところ。そして物事を言いきらないで余情を残して読者に委ねるのが良い俳句ということになります。

・ヴァイオリン降り積む雪の無伴奏

俳句考(3)

取り合わせの「付きすぎ」、「離れすぎ」について。

「一億人の季語入門」長谷川櫂 角川学芸ブックす

に目からうろこの説明があったので紹介します。

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降る雪や/明治は遠くなりにけり。 中村草田男

A/B、AとBの取り合わせの句。降りしきる雪と明治は遠くなってしまったという作者の感慨を取り合わせています。このような場合、二つの素材の距離を十分とってください。似たもの同士では取り合わせになりません。これを付きすぎといいます。

例えば、春愁や明治は遠くなりにけり。春愁も明治は遠くなりにけりもどちらも感慨ですから距離が近すぎ=付きすぎです。かといって、「げじげじや明治は遠くなりにけり」では「離れすぎ」です。素材が離れすぎると間が拡散してしまう。

もうひとつは、ふたつの素材のどちらかがどちらかの理屈や説明や場面設定にならないこと。

たとえば「建国日明治は遠くなりにけり」ここでは建国日が明治は遠くなりにけりの場面設定に使われている。

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省略について。

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俳句はとにかく17文字しかないから、エッセンスだけ残してあとは全て省略する。なにが省略できるかを検討することが推敲の大事な点と思われます。

俳句雑誌に省略特集がのっており、主語。動詞、場所、感情、時間、理屈を句の中で省略できないか検討しなさいという趣旨のないようであった。これらを省いて残ったものは⇒名詞と形容詞。

・凧舞うや無窮の空を独り占め

・木枯らしや梢の先の大宇宙

志月さんの句を借りて

・白無垢の雪愛しさに黙しけり

ひとひらの雪愛しさに黙しけり

追記

リリシズムの句ですが、

降りしきる雪ぞ×××のリリシズム

×××のところになにか画家の名前とか適当なのがあれば使えるのではないかと思います。

 

今日は俳句の中休み

●月2日で年一千万円の天下り

出すほうも出すほうだけど、貰う方もね、さらっと気がとがめないで受け取るというところが高級官僚の面目躍如です。

こういう形式的天下りは法律で禁止したはずだと思ったのだが。

文科省は解体してもいいのではないだろうか。研究も教育も国の指図なしにやらしたほうがノーベル賞が増える。

他の省庁は今必至になって証拠隠滅に忙しいでしょうね。

●廃物利用の花器もどき

枯れ木の溝に草を埋め込む。

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●またまた蜜柑

これで全部収穫終り。食べてみたらけっこういける。あまりすっぱくありません。マーマレードやジャムにすればいいけど量がね。これからもらってくれるところを探さなければならない。

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俳句考(2)

俳句と音楽

大分前に読んだ本ですが、とても感銘を受けた部分があります。5・7・5のリズムはあたかも音楽のリズムを刻むのに似ているのはすぐに気がつきますが、音色についても音楽に相似形であるとの指摘で、これを読んでいっぺんに俳句に興味をもつに至りました。

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「一億人の俳句入門」長谷川櫂 講談社

・言葉の音色

俳句の奏でる音楽でリズムの次に大事なのは、母音と子音の織り成す音色。

「行く春を近江の人と惜しみける 芭蕉

この句を母音と子音に分解して分かることは、oとuの母音が多いこと。この繰り返しに現れるふたつの母音がここでは湖の波のような調べを奏でる。

「番傘の軽さ明るさ薔薇の雨 中村汀女

「かるさ・あ・かるさ」という音が軽妙なリズムを刻んでいるが、そればかりではない。k,s,bというどれも乾いた子音、弾むようなn,mの子音、軽快なrの子音、さらにはaの母音が波のように現れるのが分かるであろう。

子音のk,s,bは7回、n,mは4回、rは3回、a母音は11回。これらの子音と母音が織り合わさって、番傘を叩くような大粒の雨のようなからっとした明るい曲を奏でている。

音色の音楽はなぜ生まれるのだろうか。日本語、とりわけ大和言葉はその意味にふさわしい音色を持っている。「はる」と言う音色は春のように柔らかだし、「ばら」と言う音色は薔薇のように豪華。・・

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日常的には漢語を使う場合でも、俳句では大和言葉に言い換えるべし、というのは添削でよく目にするが、上の文で意味がよく分かった思いがした。

このことを知ったのは1年前だが、最初から音色を考えて作っているわけではない。プロの人もそうだと思う。結果的に何となく内容とリズム、音色が合致するということで、これは何年も何回も無数に句を作り続けないと実現しない奥義のように思う。

・節分や鬼の居ぬ間の豆ひろひ

(リズムも音色も内容も、いまいち・・かな?)

追記

この音色の記事を読んで、プロの人の言葉使いと自分のような素人の言葉使いには明らかな相違があるに違いないと思った。

俳句始めて1年も経たないころだったが自分の句のストックは2百句以上あったので、図書館でプロの俳人の句集を借りてきて比べてみた。見た目には巧拙の明らかな違いがあるのは一目瞭然なので、それが何に由来するか知りたかった。

仮設として「長谷川説」にのっとって、音楽的にまずい音色の言葉を羅列しているのが素人の句であるとすると、母音、子音の頻度分布を調べてみれば、名句と駄句で違いが現れるのではないかと思って、1ヶ月やってみたがほとんど違いがなかった。ということは、普通の日本語の句であれば、統計的には差がないということが分かった。しかし、一句一句個別に見るとその違いは歴然とある。

俳句をそんな風に分解する人みたことない、と女房に異星人でも見るように奇異の目で眺め続けられた一月だった。

俳句考

俳句講座序盤、順調に推移しています。

理解を確かなものにするために、要約を記すことにします。

今日はまずその1。

私の理解足らずで分かりにくい記述になっていると思いますので、遠慮なくコメントで質問なり異議を申し立ててください。

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・まず俳句は詩である、について。
古池や蛙とびこむ水の音 芭蕉
この有名な句は、単に古池に蛙が飛び込んで水の音がした という原因結果を表すメッセージ(文章)を述べているのではありません。そうではなく、「古池」と「~水の音」という二つの情景のイメージを提示している。

普通の詩でいうと、行換えに相当するとみることができる。(ricocaの解釈)
つまり、一般の詩の形式だと
 古池
 蛙飛び込む水の音
これを、俳句の場合は、17文字にするため助詞「や」でつなぎ1行に書く。やを俳句用語で「切れ字」といいます。
感動の中心は切れ字に伴う「古池」にあります。読者は切れ字によって一瞬立ち止まり、古池のイメージについて思いめぐらす。しばらくしてやおら、どういう古池かというと、蛙が飛び込んで水の音がする古池なんだという説明が続きます。古池という名詞と「~水の音」という名詞句の双方から、それぞれの世界をイメージし、その二つのイメージを切れ字「や」によって関連付けるということです。
これを「古池に~」、とすると、蛙が古池に飛び込んで水の音がしたという、単なる不完全な原因結果の報告文になり、詩ではなくなってしまう。
一方、文末に来る切れ字もあります。代表的なのが、

「かな」と「けり」。
かな⇒かなの前にある句に作者の感動を盛り込む働きをする助詞。
けり⇒感動、詠嘆を表す助動詞。基本的に切れ字は一句に一つ。(焦点を明瞭にするため。)
「けり」は文末に来るとは限らない。
例 枯れ枝に烏のとまりけり秋の暮れ 芭蕉
切れ字は実はほかにもあります。代表的には18個。
かな、けり、もがな、らむ、し、ぞ、か、よ、せ、や、つ、れ、ぬ、ず、いかに、へ、け、じ。

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今日はぽかぽか陽気。鴨たちものんびりと。

すいすいと鴨ゆく水辺日脚し伸ぶ


・「取り合わせ」と「一物仕立て」
取り合わせの句とは、二つの異なる素材を一句の中で一つのイメージとして作り上げる手法による句。上記の句はすべて取り合わせの句です。次の芭蕉の句もその好例として取り上げられてます。
・菊の香や奈良には古き仏たち 芭蕉
「菊の香と仏像、この常識では直接係わりのない素材のそれぞれが生かされながらも、一つのイメージの世界が見事に生み出されています。」

講座テキストにはこのように解説されていますが、実は私にはこの取り合わせの妙は理解できていません。つまり、どうしてこれが名句なのか、感性不足というか経験不足というか残念ながら理解の外に居る。

取り合わせの素材は、近すぎても(言い換えれば常識的)、離れすぎても(言い換えれば非常識の程度が過ぎる)だめといわれるが、結局それは読者の感性に依存するもので、絶対的な物差しがあるわけではないということです。(recocaの見解)つまり、recocaにとっては、菊の香と仏は離れすぎなのです。
一方、「一物仕立て」の句とは、文字通り一つの素材について、深く詠む類の手法です。この深く詠むというのが味噌で、一見楽そうですが、えてして単なる報告や説明文になりがちなので、初心者にはお勧めではないそうです。
recocaが講座テキストで感銘を受けた一物仕立ての句。
ほろほろと露の玉ちる夕かな 子規

梅、辛うじて復帰か

●超特急で歳月が通り過ぎていきます。

2月のカレンダーの猫。のんびりりていてほんとにうらやましい。

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●庭に一本だけある梅の老木。普段の年なら今頃見ごろを迎えている紅梅なのですが、去年剪定に失敗したのかさっぱり咲く気配がありませんでした。

ところが気がついてみたら、ちらほらと芽を出してくれました。さすが植物は生命力が強いです。

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今日はこの空のように快晴。ただし風が強く寒いみたいです。みたい、というのはまだ外に出てないから。

・紅梅の紅輝くや空の青

人工知能(AI)

AIの発達はとどまるところを知りませんが、また新境地を開いたみたいです。

トランプのポーカーでトッププロ4人に快勝したとのこと。20日間に12万回のポーカーを行って全員に勝ち越し、チップ2億円相当を獲得との記事(朝日、2月1日)が出ていました。

これまで、チェス、将棋、囲碁など論理の世界で人間を凌駕するところまで急速に進歩してきましたが、ついにファジーな領域でも人知を超えようとするところまで進化したように見えます。

 

ご存知のように、ポーカーなどトランプゲーム(マージャンでもそうですが)では、対戦相手の札の出し方の癖を見極めて自分の切り札を決める必要があり、いわゆる直観力の要素が強いゲームです。さらにこの人は強気の性格なのか、弱気なのか、張ったりの程度はどのくらいかなどをゲームの進行中に見極めなければなりません。こういった面で、トッププロを凌いだということは、近未来のビジネスに於けるAIの新しい方向性がはっきりと指し示めされたものと受け取らなければならないでしょう。

 

記事にも指摘されていますが、営業に於ける価格交渉など、対手の性格の把握、心理作戦が必要な分野への応用がすぐにでも実現できると思われます。

 

営業の根幹は、いかに優秀なAIを探して味方につけるかが成否の分かれ目となる。そんな時代が透けて見えます。営業マンの仕事は根本的に変更を強いられる。いやな世の中だ。

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笑い療法士

最近朝日新聞は、AIロボットと「笑い」に興味がおありのようで、関連記事をちょこちょこ見かけます。今朝は「笑い療法士」。これには意表をつかれた。数ある「士」のなかでも聞いたことのない新参者です。なにせまだ全国人口850人です。

笑いの健康効果は実証済みだし、仮に健康効果がないとしても笑顔の波及効果を考えたら、これからの世の中絶対重宝されると思います。施設関係者にお勧めの「士」です。2日間の講習とレポートで取得できるそうですから挑戦してみたら如何でしょうか。ワッハッハッハ。ウサギマン師の代わりに一声嘶いておきました。

 

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・晴れやかに春寿ぐや絵提灯

・南国の春遠からじ提灯祭

・世の春を祈るランタン龍踊り

以上3句:長崎ランタン祭り

・春愁の心の友や芭蕉

・紅梅や紅ひときわに雨のあと

・秋立つや一会の雲の風任せ

・春の野や名もなき草も花をつけ