不思議なこと

●今朝の句

・天井の揺れる日差しや手水鉢(ちょうずばち)

・讃美歌の心満たすや秋澄める

ひとひらの思ひ出のごと秋の雲

民進党

代表選挙。

10年前にタイムスリップする心地。10年前と顔ぶれ同じでも頭の中身は革新していますか。でもそれは見えないので困ります。

●不思議なこと

私は理科系出身なんですが、不思議なことが大好きです。時々、道を間違えたのではないかと反省しています。UFO、宇宙人、座敷童子、幽霊、千里眼、念力、河童、妖怪等々、ワクワクします。

でも残念ながら自分には見たり感ずる才能がありません。出来る人がうらやましい・・。

それでも一度だけそれらしい経験がありました。これを不思議というかどうかは別ですが。10年前、右手にしびれが起き一年以上卓球も楽器もできなかったことがありました。内臓でなく神経系という見立てですが、整形外科も整体も効果なしでした。

そんな時たまたま横浜で心霊治療の公開治療開催という怪しげな知らせが目に留まり強くひかれた。前からこの団体の清廉潔白なことはよく知っていたのでどんなものか覗いてみることにしました。このときしびれのことは全く頭にありませんでした。具体的な治療行為はいわゆる手かざしです。ただし、かわっているのは、利用するのは宇宙エネルギー(霊界のエネルギー)であって、治療師には何の能力もなく単なるエネルギーの通過点だというのです。実際の治療風景は、抽選で選ばれた5,6人に舞台でひたすら手かざしするという地味なもので、治療の結果がどうだったのか全然わかりません。公開なので観客は抽選で50人ほど。

いささか拍子抜けして横浜駅から帰路につきました。そして、電車に乗って気が付いた。しびれが消えているではないか!当初はいわゆるプラシーボ効果で、そのうち再発してくるだろうと高をくくっていました。が、本当に完治していた。それ以降今に至るまで全くOKです。後でこの団体に電話して聞くと、公開の現場に観客としているだけで何らかのプラスの波及効果の及ぶことが少なからずあるのだそうです。

怪しげであろうと何であろうと患者の利益ならOK、いささか乱暴だが私の昔からの主義です。科学的正統的治療が何の効果もなしに、威張るんじゃないと私はいいたいのです。

イギリスではもう少し謙虚で、いわゆる心霊治療が政府公認で、希望すれば保険がきくときいたことがあります。

●クイズ

この花なんでしょう。(やや難問かな)夜は葉が閉じます。

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夕方日が落ちると葉が閉じる。その1

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その2

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いっとき・の秋

東京はどうしたんでしょうね、一昨日から突然の秋(Max 24度)。明日まで続くみたいで、日曜から30度に戻るとの気象庁のご託宣。本当の秋はやはりお彼岸過ぎでしょうか。

今日からとりあえず九月。8月カレンダーの猫ちゃんにさよならします。

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●秋といえば、私が真っ先に思い浮かべる歌があります。

落葉松

野上彰詩 小林秀雄

軽井沢の落葉松をうたったシンプルですが心に沁みる詩です。ラジオで放送された詩を聞いて感動した作曲者が作った曲。

ネットから上高地の落葉松

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落葉松 野上彰

落葉松の秋の雨に

わたしの手が濡れる

 

落葉松の夜の雨に

わたしの心が濡れる

 

落葉松の夜の雨に

わたしの心が濡れる

 

落葉松の陽のある雨に

わたしの思い出が濡れる

 

落葉松の小鳥の雨に

わたしの乾いた眼が濡れる

わたしの乾いた眼が濡れる

 

落葉松の秋の雨に

わたしの手が濡れる

 

落葉松の夜の雨に

わたしの心が濡れる

 

落葉松の陽のある雨に

わたしの思い出が濡れる

 

落葉松の小鳥の雨に

わたしの乾いた眼が濡れる

わたしの乾いた眼が濡れる

 

落葉松の秋の雨に

わたしの手が濡れる

落葉松の夜の雨に

わたしの心が濡れる

・・・・・・・・・・

ソプラノ歌唱 中沢桂 ライブ

https://www.youtube.com/watch?v=b3CbX9anc7o

 

 

看取りほか

●初秋9月は敬老会の季節でもあります。人生の黄昏という意味なのか、この時期に催されることが一般的になりました。東久留米市ではこんな感じでもよされます。

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誰でも入場自由みたいです。帰りの出口で顔を見て、この人は高齢者と判断されたらお土産がもらえます。私はエンタテーメントの提供者(オカリナ)なので、同じお土産がもらえますが、お客に紛れて退出すればさらに一個余分にもらえます。(多分)

東久留米市の人口10万として、90歳以上4.3%、百歳以上0.57%。

ちょっと前まで100歳以上には家まで市長が土産を持参してくれたものだが、57人も居るとやってられない、ということになった。

●今朝の句

・看取りゆく窓一面の夏野かな(以下の記事に因んで)

・楠の春千年や大社(おおやしろ)

●日野原先生90歳のときの著書「生きかた上手」から感銘を受けた章です。

「人には人にふさわしい終末が約束されるべきです。」

・医療が死を台無しにしてしまう。

お医者さんがこのようにおっしゃるとは意外でした。

「死は人生のクライマックスであるべきなのに、その場面を医師が患者や家族から無造作に奪い取り台無しにしてしまうのです。無益な延命措置などの医療を施してしまうこともその一因です。・・中略・・患者さんを苦しませてはならない。そのための処方は十分に行うべきである。人間らしい死とはどういうものをいうのでしょうか。それは、死の手前まで愛を感じられる感性が保たれていて、花を美しいと思って見つめ、その香りを楽しめて、殆ど食べられないとしても、ぶどうの果汁をちょっと口に含めば「あぁ、おいしい」と味わいが起こる。そうしてさらに、自分の命が間もなく終わるその別れのときに、愛する人たちにどんな言葉を残してゆくか考える知性が保たれている。そのようなものだと思います。」

昔の武士は皆そうでしたね。芭蕉も後世に残る辞世の名句を残しました。

「がんの末期の痛みもモルヒネで楽になります。モルヒネは怖い薬という誤解が医師の間にさえあるのは憂うべきことです。死を連想させる激しい痛みから解放されてみると、患者さんは自分が死に向かっているというよりも「今を生きている」という実感、希望が湧いてくるのです。・・中略・・

・家族との別れを作る試み

私はこの2,3年ガンの末期でなくなっていくホスピスの患者さんたちに少し思い切って別れの時を作る配慮をしています。死がもう何時間かあとに迫っていることが判断されたときには、それまで使っていた強い痛み止めを一旦やめてみるのです。そうすると、意識が遠くなりかけていた患者さんがふっと意識を回復して、家族と最後の言葉を交わすことが出来ます。人間として最高の愛情を示していけるのです。中略・・臨終は大切な儀式なのです。・・・・患者さんの減っていく砂に私の砂を足して一緒に落ちていく。そうすれば患者さんの心にせめてしばらくは寄り添うことが出来ます。・・後略・・」

映画

●今日は、近くの公民館で自主興行の映画を見てきました。’この世界の片隅に’。昨年各種の賞を取った映画なのでごらんになった方も多いと思います。映画館だと入場料が高いのですが、こういう映画だと少し待てば安く見られます。(1000円)さすが人気作品だけあって、午前の興行は300席満席でした。今日はトータル4回興行ですが恐らく全興行満席だと思います。

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映画のストーリーは、戦時中広島から突然軍港呉の町に嫁入りした主婦の戦時中の日常を淡々と描いたもので、さっと素通りすると退屈といえば退屈な映画に受け取られる。しかし、その戦時中の日常が、70年の平和が続いている現在から見るといかに非日常的な異常な状況であるかを上映時間の2時間をかけてじわじわと考えさせる映画であると感じた。

さてこの映画興行の主催は地元の「九条の会」である。そのことからも興行の趣旨ははっきりしている。つまり反戦ですね。戦争に巻き込まれると庶民がいかに不幸で理不尽な生活苦に陥るかの例示です。だから、こういう事態に陥るのを避けよう・・。ここまでは心から賛同します。

では、どうすれば避けられるか。ここからが現代の我々が真剣に考えるべき問題ですが、おそらく明確な論理的正回答はないでしょう。つまり、こうすれば絶対に回避できるという方策は発見できない。しかし、何らかの方策は取らねばならない。その意味では大きな賭けに直面しているといえます。

平和憲法を尊重して丸腰になる。最小限の自衛の軍隊は有する。普通の国のように軍隊を持つ。通常兵器に加え核兵器も持つ。等々いろんな方策の選択肢があります。ではどの方策をとれば、この映画のように庶民が不幸にならないですむのでしょうか。これはもう賭けとしか言いようがない。

●もうひとつ重要な映画があります。今日会場でチラシをもらってきました。戦時中治安維持法で拷問死した小説家小林多喜二の母の視点から描いた映画です。こちらのほうが恐らくインパクトがあると推察されます。「わだしは小説を書くことが、あんなにおっかないことだとは思ってもみなかった。あの多喜二が小説書いてころされるなんて・・」

原作は三浦綾子さんの小説。

最近成立したいわゆるテロ防止法が現代版治安維持法に変身しないことを切に祈ります。なにしろ簡単に化けますからね~。監視が必要です。

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絵本

今日は、ブログ開始以来はじめて絵本の記事を書きます。というか、絵本イラストレーターの紹介です。Kinuko Y Craftさん。この方は、米国で今最も著名な日本人イラストレーター。

近年、美女と野獣、シンデレラなどの物語に幻想的な挿絵をつけた本が米国で有名になってるそうです。ニューヨークの娘の友人が何冊か送ってくれた本のイラストがあまりに素晴らしいのでここに紹介することにしました。日本でも洋書としてアマゾンで購入できるようです。イラスト鑑賞のために購入するのもよさそうです。(Kinuko Y Craftで検索するとでてくる。)

石川県出身、シカゴ美大卒、以来米国で活躍、ニューズウィークナショナルジオグラフィック誌の表紙担当、挿絵、ポスターデザインなど経験、1990年以降は絵本、ファンタジー小説の挿絵などに挑戦、米国で最も著名なイラストレーターとして活躍中とのことです。

シンデレラ①

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シンデレラ②

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シンデレラ③

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シンデレラ④

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シンデレラ⑤

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美女と野獣

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美女と野獣

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美女と野獣

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眠りの美女①

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眠りの美女②

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眠りの美女③

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今日の句

・鼻高き挿絵の美女や秋澄める

・虫時雨一瞬止みて目覚めけり

・人なくて秋の浜辺の波静か

 

 

 

俳句の復習

早朝、東の窓から冷風が吹き込んだら、その日は涼しい。今朝は正にその日。案の定ローカルの予報はMAX26度。

俳句講座終了して忘れそうなので復習するので、よろしければお付き合い下さい。講座テキストは3部構成の大作だが、つまるところ以下のところをマスターすれば、今日からあなたも私も俳人です。悩みすぎて廃人にならぬようにしましょう。俳句の形式には、取り合わせ一物仕立てがあり、これ以外の形式はない。

1.取り合わせ、こそ俳句の面白さ

芭蕉「俳句とは、取り合わせるものである。ふたつの異なる素材を取り合わせて、うまく取り持つことが出来る人を上手な人という。」

この取り合わせは、掛け合わせとも言う。

例句 菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉

菊の香ー仏像たち、この直接関係のないふたつの素材のそれぞれが活かされながらも、一つの見事なイメージの世界が生み出されている。常識とは異なる二つの素材の意味の上での隔たりが句の魅力。これを子規は配合といい、別の俳人は二物衝撃といった。イメージとイメージのぶつかり合い。

2.一物仕立ての句

一つのもの(一物)について一気に詠む。一句の勢いが命である。一物仕立ての句は詠みやすい反面、安易な句になりがち。

例えば、ダメな例 菊白く咲かせみんなに自慢せり

⇒言葉選びが雑。

こういうのもダメ 菊眺め時を忘れて震えけり

⇒事実の報告、感動の押し付けになっているから。

良句 しら菊の目に立てて見る塵もなし 芭蕉

(今咲いている白菊には目に止まる塵がひとつもない)

注意

説明してしまってはいけない。これが初心者には非常に戸惑う点だと思う。どの辺まででやめたら良いのか程度が分からない。先生に指摘してもらわないと会得できない点です。

どれほど見たもの聞いたものへの感動を詠んでも、そのことの説明だけに終わっている句は魅力がない。つまり、一人合点はだめ。「私は感動しました。」と説明されればされるほど、読者は鑑賞する手立ても気力も失ってしまうことに留意すべきである。花の美しさを詠んだとき、美しさのほのかな余韻、余情が伝わってくるのが良い句。表現が説明的でくどいと、せっかくの花の美しさも香りも飛んでしまって伝わってこない。

・夏草や薄れし記憶震災忌

・窓開けて教会の中風凉し

・単線のひと駅ごとの虫時雨

・家の窓キャンバスにして夕焼ける

・山小屋の窓したたかに野分かな

1、2句⇒取り合わせ、3,4,5⇒一物仕立てのつもり。

 

なんでも、「はい」ほか

●こんなことを気にするのは私だけだろうか。

NHKの報道番組を見ていて、非常に違和感を覚えることがある。
いつごろからだろうか、番組の中でキャスターが、現地取材の記者になにか質問したとする。

すると、質問を受けた記者は開口一番「はい」と一声いなないてから、回答にかかる。回答の内容が「YES」なら分るが、回答内容が否定のときもお構いなしに「はい」。

キャスター 「豚インフルエンザの医療体制はM国では十分でしょうか?」

記者 「はい、M国の医療体制は、とくに低所得者層について十分ではありません」

日本語本来のはい、いいえの意味なら、上記は明らかに「いいえ」で始まるべきだ。

標準日本語のリーディングメディアであるべきNHKがみずから霍乱しているように思える。最近は、NHK以外の放送にも広がったようだ。

たとえば、外国人に日本語を教えるとき、この「はい」はどのように理解させるのだろうか。

しいてこの「はい」に意味づけるとすれば、「あなたの質問の趣旨をよく理解しましたよ」くらいの意味だろうが、こんな使い方は日本の一般社会で認知される方向に進んでいるのだろうか。しいて英訳すれば「Well,~~~~~」か?

●昨日の新聞記事で、40年ぶりに地震予知不能を国が認めたとの記事。

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地震予知が出来ないことは殆どの地球物理学者や地震学者の間では暗黙かもしれないが常識であったと思う。地震予知を名目にすれば研究費が取りやすいというだけのことだったのではと思う。国もやっと目覚めた。無駄使いをやめて防災に回してもらいたい。

なぜ予知が出来ないかをシンプルに説明したえらい先生がかつて居た。

曰く、地震予知は「糸をぴんと張って引っ張ったとき、いつどこで切れるか」を予知するのと同じである。

・炎昼や思いあらたの震災忌