私的俳句考(2)

「俳句では感情・感想表現をしない。」

これを確かめるために古今の名句を集めた「俳句いろはかるた」を調べてみた。

水原秋桜子監修の昭和52年俳句文学館著のかるたである。なるほど、全50句中1句を例外として喜怒哀楽の語はなかった。

例外句は「よろこべばしきりに落つる木の実かな」。よろこべば、という仮定表現だからゆるされるのだろうか?

啄木の歌に、「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる」というのがあるが、この情景と心象を「泣く」の語なしに表現できるだろうか。

俳句では、短歌の後半の7,7も無いし、季語も必要だ。よって、「泣く」をはずすと実質的に使えるのは「かにとたわむる」だけ。

そうすると、小生の技量では啄木的心象にはほど遠い子供遊びの句になってしまう。→「五月晴れ蟹とたわむる川遊び」

一方、「泣く」を許されると状況は一変する。

例えば→「磯に泣き蟹とたわむる秋の暮れ」てな具合になり、多少は悲哀感が出る。さらに「磯」も省いてしまえば→「泣きぬれて蟹とたわむる秋の暮れ」とでもなり、さらに啄木に近づく?

小生の技量では、泣かないで蟹と戯れると、こっけいな句にしかならないのである。どなたか俳句達人の教えを請いたいものである。

不自由さといえば季語もそうだ。芭蕉のころからのルールかもしれないが、別になくしても支障ないばかりか表現の領域が広がると言う視点も当然存在する。

こういう諸々の制約を逃れるために現代俳句が成立しているのではないかと勝手に思っている。ただし、クラシックと現代音楽の関係とおなじで、あまり前衛的にすぎると、知がたちすぎて「癒し効果」が薄れるので、個人的には好まないが、季語に拘らないという程度の「前衛」であれば歓迎だ。

・春耕や悠久の富士雲白し