○○歳の手習い

私が俳句歴2ヶ月と言ったら、知人が私も60の手習い始めてみようかしら、とつぶやいていた。

今私の座右の句集は、私と同じくらいの年から始めてなくなられた方の5年間の成果であるが、アマとは思えない発想の叙情性に富んだ内容である。能力次第だが、ここまで出来るのだ、という見本が手近にあるということは心強い。

以前紹介したフランスのノーベル医学生理学賞のカレル博士は次のように述べている。

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人間には巨大な潜在能力が与えられている。しかし、彼は一瞬ごとに選択しなければ成らない。そのたびに、潜在能力の一つを永遠に捨てていく。

開かれた人生の未来の中から他の道を全部捨て、一つの道だけを選び取らざるを得ないのだ。我々の中には数多くの別の可能性を持った人間がいるが、それは一人ずつ死んで行く。

全ての人間は、固体になっていく液体であり、だんだんに値打ちの下がる宝である。進歩するのも、衰退するのも、結局は自分の意思によるものである。

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つまり、老人は過去の無数の選択の総決算であり、その顔、表情はその鏡であるということである。

だから、老境に至ってもなお内部に眠っている可能性、選択肢を捜し求めかたちにしていくことは、高度なアンチエイジングといえる。

 

近くに、テニスと卓球の上手な米国人宣教師の教会がある。ここは、娘と、5年前になくなった長男が洗礼を受けた教会である。ここでは毎月、近所の方をよんで贖いカフェと称するお茶の会を催している。以下5句はそれにちなんだ句。なお、イースター(復活祭)はクリスマスと並ぶ、教会の春の重要行事なので、ここでは春の季語とした。

・カフェの日も諸人寿ぐイースター

・春のカフェ堂に流れるアヴェマリア

・春の堂カフェ囲みたる日の長き

・春のカフェ窓より人を招きおり

・永日や贖いのカフェ饒舌に