親と子

子供が親に対して、生んでくれと頼んだ覚えはないと悪態をつくことがあるが、スピリチュアリズムの知識に照らすととんでもない間違いである。

人の魂は再生直前に人生の課題を決める。設定課題の中味は、前世での反省点及び失敗の克服、これまで未経験のさまざまな立場の人生などで、いずれもこの世に誕生後、課題の中で愛と奉仕の機会をいかにして探し実践するかによりその人生の評価が定まる。

社会的、経済的地位などは一切評価の対象外。不合格と判断(閻魔さまではなく、霊になってから自分が判断する。)すれば再び再生のチャンスを窺う。生まれる前には、設定した課題を的確に実践できる環境を慎重にさがす。そのなかで最も重要なのが「親」と「生まれる地域」の決定である。特に「親」選びは慎重の上にも慎重を期して行われると記されている。

つまり、子は親を選んで生まれるが、親は子を選べないということ。

子供が生まれるということは偶然のことではなく、子が親となる人を指示して、かけがえのない時と命の全てを無抵抗で預けるという神聖な行為なのである。ゆえに、親は預けられた命を最大限の注意をもって見守り、子が設定してきた課題を愛と奉仕の精神で実践できるように育てなければならない。虐待とか子殺しなど問題外の外である。

ここで重要なのが知的、あるいは肉体的障害者の存在。この人たちの脳や体は壊れているが霊は全くの正常なのだということをまず留意しなければならない。この人たちも障害者という制約の多い厳しい環境における愛と奉仕をテーマに、そのテーマを遂行しやすい親を選んで生を受けている。同時に親のほうも障害の子に無条件の愛を注ぐという生前の課題に挑戦しているわけであるが、個々の家庭だけでは荷が重い。地域社会の助けが重要で、そうすることで人類全体の霊的レベルが向上するといわれている。このように、障害者の存在は一種の潤滑油とみなすことが出来、人間の霊的レベルの向上には重要なの存在といえる。

他人を殺すという行為は、以上の観点から最もやってはいけないことである。なぜなら、せっかくの課題遂行の機会を奪うという最も利己的な行為だからである。詳述はしないが、この罪を償うには永遠にも等しい時間と大変な労力を要する。

スピリチュアリストは、被害者と同時に加害者のほうにも、今後の大変さを思って同情するといわれる所以である。

自殺もいけない。なぜなら、課題を途中で投げ出してしまったから。かならず次の生があり、もっと厳しい課題を背負うことになる。これは、閻魔様の命令でなく、自分で決めてくる。霊になると、全てが見通せるからである。

この世には、裕福な人、名声、権力のある人などいわゆる恵まれた人が居る。この人たちは、その恩恵の上に安穏としているだけでよいか。この人たちもその恵まれた環境を選んでこの世に来てはいる。ただし、生前設定した課題にはかならず、その環境での最大限の愛と奉仕がセットで含まれている。これを思い出して、如何にこの世で実行できるかで今の人生の評価が定まる。どっかの知事のように権力を利用して、自分に優しい金や資源の使い方をしているようでは落第である。

以上はスピリチュアリズムでは自明の知識であり、これは、学問のように段階を追って学んでいけば誰でも納得できることであるが、面倒に思う人が多いだろう。では、次善策として如何にしたらよいか。そこで数回前のブログ「パスカルの賭け」を思い出してほしい。すなわち、「上記が真」に賭けるのと、「偽、すなわち嘘」に賭けて生活するのでは死後どちらが得かよく考えてみよう、というのがパスカルの問いである