忠臣蔵他

・意外な臨時収入があった。

10月の台風で2階の屋根の廂に穴が開いて修繕してもらったら25万円かかった。(意外と安く上がっているが、この工務店はぼらない正直者で通っている。)

こういういわゆる風災被害は火災保険でカバーできるということを今回初めて聞いてびっくりした。火災保険って火事の保険だよね。だから、がさネタかと思ったら本当だった。しかし、保険会社に確認したら我が家の火災保険は40年前の骨とう品なので、そんな特約はついてないとのことで、申請してもせいぜいお見舞い金程度しかでないというお達しだった。なのであてにはせずに申請するだけはしておこうと、25万円で出しておいた。1.5か月後の昨日、開けてびっくり、半額近くが「御見舞金」として支払われていた。なにはともあれ、一応やってはみるものだという教訓。お蔭でこの暮れは、金持ち喧嘩せずのおおらかな気持ちで過ごせる。しかし、ゴーン氏の百億円にくらべれば、なんと貧乏人の根性のいじらしいことよ。

忠臣蔵

討ち入りの日、今年も時代劇専門チャンネル忠臣蔵をやっていたので時間つぶしに見てしまった。討ち入り場面はどうでもいいがそれに至る過程が面白いですね。

浅野の殿様が殿中にもかかわらず吉良の殿様に切りつけたのはよくよくの怨念があったからということになっている。接待指南役の吉良が、伊達に比べて事前の賄賂金品が著しく見劣りした浅野に腹を立て嘘を教えたり重要情報を伝えなかったりの意地悪をしたのが原因らしい。もし本当ならこれは今はやりのパワハラである。幕府は刃傷に及んだ原因の事情聴取を双方や周りからしっかりするべきであった。調べ無しの即日切腹では大石さんでなくても怒るだろう。

ところで、厳重警戒の吉良邸討ち入りがすんなり成功した。何故だと思いますか。そのことを論じた面白い本がある。これは、RECOCAが直接読んだわけではないが、かみさんが読んで独り言のように語るのを聞いて覚えたことである。これはかみさんの昔からの癖で、本やTVで面白いと思ったことを物語のように語りたがる。昔は、うるさいといって黙らせたものだが、喜寿もすぎるとRECOCAも人間が成熟してきているので、なりゆきにまかせている。この話はその中でも特に面白いと思ったことなので、うろ覚えの要点を記しておく。

なぜ討ち入りがすんなり成功したか。幕府が裏で手助けしたからである。徳川幕府は当時の元禄華やかかりしころ、幕臣の忠義心が薄らいでゆくことを憂いていた。討ち入りは忠義心を喚起するのにうってつけのイベントなので最大限利用することを考えた。さらにもっと根深い原因がある。それは、三河における吉良と徳川の水利権争い。三河においては徳川は新参者、すでに水利権を牛耳る吉良にお願いして水を分けてもらう立場だった。そのうち徳川の方が天下を取ったがこの吉良との関係はずるずると引き継がれていた。もし討ち入りで吉良を退治してもらえれれば、三河における目の上のたん瘤が自動的に解消する。そこで、江戸入りした47志にいろいろ便宜を供与した。①江戸城近くの警備のしっかりしている場所に住まいを提供した②吉良邸を江戸城近辺から引き離し本所に強制移住させ討ち入りしやすい環境を整えた。③夜中に47人もの一団が警備の者に見とがめられずに本所の吉良邸まで武装して移動できたのはなぜ⇒見て見ぬふりを命ぜられていたからである。

だったら討ち入り後に切腹させることもなかろうと思うが、その辺はけじめはつけておく必要があったのだろう。

ところで、吉良の殿様は地元では領民に慕われる大変な名君だったらしい。名古屋から名鉄急行で30分吉良吉田という駅がありここが現代の吉良の地元玄関口である。このあたりの土着の人々は忠臣蔵など決して見ないと思う、というか反感を抱いていると思う。47人も寄ってたかって一人の老人を襲うとはなんたる蛮行、という見方もできる。いま残っている歴史は勝者というか一方から見た歴史である。吉良側からも言いたいことがいっぱいあるだろう。しかし三河の人は尾張以上にシャイなので決して大声では語らない。とにかく双方から見ないと忠臣蔵の本当のことは分からないだろう。