余情・余韻ーー久しぶりに俳句について

何年振りかに俳句について書いてみます。

俳句は世界最短の、形式を有する短詩です。その本質を一言で要約すれば、余情・余韻だと思います。石寒太著・現代俳句の基礎用語から少し長いですが抄録します。

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「言い切ってしまって、一体そこに何が残るだろうか。」これは芭蕉の有名な言葉。これこそ俳句の特質を見事に言い当てたもの。また、こうも言っている。「十のものを省略して七八分にしてもまだ目立ってしまう。五六分に留めあとは言外にのこしてこそ余情余韻が生まれ、鑑賞に堪える句になる。」余情とは、物事が終わった後も、心から消えない深い味わい、また言語芸術では直接に表現されず言外に漂う豊かな情趣をいう。さらに余韻とは、音のかすかに残って続く響き、音が消えた後もいつまでも耳に残っているかすかな音を指している。巨匠高浜虚子は次のように述べている。「俳句は簡単なる文芸であるゆえに簡単なる叙述を必要とする。多く語らずして多くの意を運ぶことを目的とする。多弁饒舌なる文芸は他にある。」として俳句の多弁を強く戒めた。俳句は沈黙の文芸である。表現を極力抑えて、心を内に秘め、あらわに感情を外にあらわさずに余情余韻を漂わせる手法こそ最短詩型である俳句の美学であり、他の文芸に拮抗する最大の武器である。例句。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏

秋なのに風鈴が鳴った、というだけの内容の句であるが、このような韻文の形で書かれてみると、外し忘れられた鉄さびた風鈴の音が客観化されて読者にしみじみと伝わってくる。それが余情余韻につながってくる。

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如何でしょうか、俳句では喜怒哀楽の文字を直接あらわさないこと、という初心者への教えは上記に基づいているわけです。春が来て楽しい、とか秋が来て寂しいとなぜ言ってはいけないのか、俳人とはなんと偏屈な人種と思ったものでしたが、詠み手の喜怒哀楽を押しつけるのでなく、余情余韻から読者に自ずから感じ取ってもらうということなのです。これは寡黙な武士の心情に通じるものがあり、古来日本人のコミニュケーションの特色であるともいえます。男は黙ってサッポロビールというCMがありましたが、あれです。

ところで、突然ですが昔のTVCMを特集した動画がアップされていましたが実にいいです。皆さんもしばしお楽しみください。

・平成の永久に三十路や五月来る

・武者人形眼に映る時千里

・オカリナや眼瞑れば春の風

・深呼吸新芽膨らむ春の風

・よみがえる剪定の木々若葉風

           RECOCA

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