「一億人の季語入門」という題名に引かれて、この本を読んでみた。俳句に於ける季語の位置づけ、いかに大事な要素かくりかえし素人に語りかけてくれている。季語を逃れようという魂胆がいかに浅はかであるかを認識させられた。
キャッチコピー「季語は未来への贈り物。ー季語は日本人の想い出が刻まれた言葉。季語の宇宙はあなたの俳句を待っている」
には、まいった。はい、これからは心を入れ替えて、しっかり季語に向き合います。
だから、しっかり構築された季語の宇宙を飛び出すことが、いかに決死の冒険であるかは、現代屈指の前衛俳人をもってしても、季語なし句はいまだ実験段階と言わしめていることからも分かる。
「季語には本意(本来の意味)がある。」
これをしっかり理解しないとボケた句になる。
例えば「春の雪」という季語。=立春後の雪、冬の雪と違って、どこか明るくはかない印象がある。これが、この季語の本意。
春の雪青菜をゆでていたる間も
(細見)
葉っぱをゆでている間も雪が降っている、というだけの一見つまらない句にみえる(実は最初そう思った。)が、「なべの中で踊る青菜の青に春の到来を見て取った句。春の雪の春の一字が躍動している。もし春の雪でなく、昼の雪のような冬の季語であったら、ただの説明のつまらない句になってしまう。」
というように、「春の雪」の意味をちゃんと理解していないと句の鑑賞は出来ないということ。
俳句には、このような暗黙の約束事が色々ある。この世界にしっかりと足を突っ込まないと、句作はおろか鑑賞も出来ないという、一種のマニアックな世界だ。短歌と全く違う所以だろう。そういう意味では、短歌が文科系の文学とすれば、俳句はどちらかというと理科系の文学といえるかもしれない。
・春の雪急いでつくる雪だるま
「春の雪」は溶けやすいという季語でもあるので、急いでゆきだるまを作った、という句のつもりだが、川柳みたいな感じだね。
北の方は季節はずれの寒波と大雪の報。「春の雪」は通じない。
・雪国や弥生の春の遠きこと
・春の雪泡沫(うたかた)の夢と消えにけり