春一番(俳句考5)

今日は春一番の陽気で、見る見るうちに強風になってきた。

そこで春一番にちなんで、俳句講座テキストを読んで、これを会得できれば免許皆伝への一番大事な一歩と私が思ったことを書くことにします。

ユーキャン俳句講座「俳句読本」p18~

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「取り合わせ」と「一物仕立て」については前のブログ記事に書きました。取り合わせは素材の選び方組み合わせ方言葉の選び方に苦労し難しそうですが、その分だけ成功したときは大変魅力的な句になります。

 

一方「一物仕立て」の句は、一見作りやすいですが安易にやると大抵勢いのない平凡な句か、事実の報告、感動の押し付けになりやすい。

例えば、言葉の選び方の雑な一物仕立ての句

*菊白く咲かせみんなに自慢せり

 

慎重すぎて言葉がくどくなり、事実の報告、感動の押し付けになった句

*菊眺め時を忘れて震えけり

 

これに対して芭蕉の名句

*しら菊の目に立てゝ見る塵もなし

「目に立てゝ見る」=目にとまるような

(白状するとrecocaはこの句の良さが理解できてないので免許皆伝には程遠い。)

 

説明過剰句はだめ

「言い尽くしたとして、それが何になるのか」これは弟子の質問に対する芭蕉の答え。芭蕉は「言い尽くされた」という基準では作品を評価していないのです。つまり、「どれほど見たもの聞いたものへの感動を詠んでもそのことの説明に終わっている句は魅力がない。作者の一人合点に終わって今うことを戒めているわけです。

 

俳句は読者に読まれて、感動が共有されて初めて意味が生まれる。「私は感動しました」と説明されればされるほど、読者は鑑賞する手立ても気力も失ってしまうことを心にとめておいてください。」

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だそうです。じつはこの辺の頃合いが俳句の一番難しい点で、指導者について添削を受けないと会得できないのではと感じています。

習い事にはなんでもかならずこういった、ここ一番という肝があると思います。ここを突破すればあとはすいすい、というような。

いきずまったら(つまりスランプを感じたら)、肝に来たなとにんまりして耐えること。人のことだと簡単に言えるが、偽師匠には無理かも。すぐに放り出しそうだ。

いまこれを書きながら、感動の押し付けの句ができました。

・梅の香に一句閃く至福かな

演習問題「感動の押し付けと言われないように添削してください。」

ヒント、至福かな、と一人悦に入っているところが問題。