・季語の力
季語には長年培われた潜在的な意味が潜んでいる。(季題、本意という)俳句ではそれを最大限活用します。季語はそれだけで情趣を含んでいるから、作者がそれに付け加えて思いや感動を加える必要はないということになります。歳時記の勉強がいかに大事か分かる。
さらに重要な記述があった。俳句は当季を詠むこと。つまり、今だったら早春、晩冬だからその季節を詠む。
自分は夏が得意だからといって、今の時期季節はずれの夏の句を詠んで発表するのは場違いでよくないということです。このことは、ユーキャン俳句講座でも指摘されています。
これは、発句の習慣の名残と思われます。俳諧の最初の句である発句では一座へのご挨拶として当季を読み込むことが義務付けられていたからです。このことは、私は全く知らなくて講座テキストを読むまでは、当季など無視して年中得意な季節の句ばかり作っていた。
日本人は手紙でも、路上の挨拶でも必ず季節の挨拶から入る。なしのときはわざわざ前文ごめん下さい、と断りを入れるくらいです。これは発句の習慣からきている。
・切れ、と余白
前のブログで説明したが、発句には完結性が必要です。そこで用いられるのが切れ。切れを明らかにするために切れ字を使います。切れ字は言い切る形をとる語。切れによる間によって、眼前の景に加えて現実には見えない世界を呼び出すことが出来るのです。
日本の芸術の真髄は余白美によって成り立っているといえます。華道では、余白の方が主役。ある日本料理のシェフの言葉、「味のアピールを半分でとめる。あとは食べる人が探ってください。・・」能もしかり。
俳句・・17文字に絞り込むために切り捨てられた風景、言葉の数々など、文字としては表に出ないが、句の裏側(余白)に隠され、確かに存在していることを伝え感じ取るのが俳句である。
正に、冗長な西洋詩と対極をなすものではないか。
・赤蜻蛉あの少年の日のことを