看取りほか

●初秋9月は敬老会の季節でもあります。人生の黄昏という意味なのか、この時期に催されることが一般的になりました。東久留米市ではこんな感じでもよされます。

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誰でも入場自由みたいです。帰りの出口で顔を見て、この人は高齢者と判断されたらお土産がもらえます。私はエンタテーメントの提供者(オカリナ)なので、同じお土産がもらえますが、お客に紛れて退出すればさらに一個余分にもらえます。(多分)

東久留米市の人口10万として、90歳以上4.3%、百歳以上0.57%。

ちょっと前まで100歳以上には家まで市長が土産を持参してくれたものだが、57人も居るとやってられない、ということになった。

●今朝の句

・看取りゆく窓一面の夏野かな(以下の記事に因んで)

・楠の春千年や大社(おおやしろ)

●日野原先生90歳のときの著書「生きかた上手」から感銘を受けた章です。

「人には人にふさわしい終末が約束されるべきです。」

・医療が死を台無しにしてしまう。

お医者さんがこのようにおっしゃるとは意外でした。

「死は人生のクライマックスであるべきなのに、その場面を医師が患者や家族から無造作に奪い取り台無しにしてしまうのです。無益な延命措置などの医療を施してしまうこともその一因です。・・中略・・患者さんを苦しませてはならない。そのための処方は十分に行うべきである。人間らしい死とはどういうものをいうのでしょうか。それは、死の手前まで愛を感じられる感性が保たれていて、花を美しいと思って見つめ、その香りを楽しめて、殆ど食べられないとしても、ぶどうの果汁をちょっと口に含めば「あぁ、おいしい」と味わいが起こる。そうしてさらに、自分の命が間もなく終わるその別れのときに、愛する人たちにどんな言葉を残してゆくか考える知性が保たれている。そのようなものだと思います。」

昔の武士は皆そうでしたね。芭蕉も後世に残る辞世の名句を残しました。

「がんの末期の痛みもモルヒネで楽になります。モルヒネは怖い薬という誤解が医師の間にさえあるのは憂うべきことです。死を連想させる激しい痛みから解放されてみると、患者さんは自分が死に向かっているというよりも「今を生きている」という実感、希望が湧いてくるのです。・・中略・・

・家族との別れを作る試み

私はこの2,3年ガンの末期でなくなっていくホスピスの患者さんたちに少し思い切って別れの時を作る配慮をしています。死がもう何時間かあとに迫っていることが判断されたときには、それまで使っていた強い痛み止めを一旦やめてみるのです。そうすると、意識が遠くなりかけていた患者さんがふっと意識を回復して、家族と最後の言葉を交わすことが出来ます。人間として最高の愛情を示していけるのです。中略・・臨終は大切な儀式なのです。・・・・患者さんの減っていく砂に私の砂を足して一緒に落ちていく。そうすれば患者さんの心にせめてしばらくは寄り添うことが出来ます。・・後略・・」