「挨拶」

読者の皆さん、お早うございます。お変わりありませんか。

今朝も有難いことに軽井沢状態。昨夜は布団を引っ張り出さないと寒いくらいでした。しかし、台風が過ぎるとまた35度超の再来が予報されています。次の台風の卵が14号になって来訪しそうなので、今度こそ台風一過秋の空気を呼び込んでほしいものです。

さて、カメキチさんの「禅語録」に刺激されて、「ZENGO」という本を借りてみました。禅語集で、大体の意味が記されています。ざっと眺めて思ったのですが、人のコミュニケーションに関係する禅語が結構多いということです。一ページ目から続けて3語がそれでした。すなわち、「挨拶」、「相逢不相識共語知名(あいおうてあいしらずともにかたりてなをしらず)」、「喫茶去」(きっさこ)。禅というのは座禅を組んで一人黙々と修行に励むものかと思ったのですが、修行のスタイルはそれだけではないのですね。考えてみれば、禅問答なんかは典型的なコミニュケーションといえるのかもしれません。では、順にみていきましょう。

①挨拶

これが禅語だったとは驚きです。次のように説明されています。「禅宗で、僧が問答を繰り返しやりあうこと。転じて私たちが毎日交わす会釈、受け答えの意味になった。」

「挨」も「拶」も押し迫る、迫るの意味をもつ言葉だそうです。日常挨拶を交わすとは軽いコミニュケーションの意にとらえがちですが、それをあらわす文字は圧するような迫力を持つものだということです。ですから、こんにちは、こんばんはなど日常使う挨拶の言葉には何の意味もありませんが、言葉をかける、交わすということ自体に深い意味を含んでいるといえるのかもしれません。

実際、人がいても挨拶を交わさなければ他人のまま、あるいは壁や物体と変わりません。「ひとたびこんにちはと声を掛けられた瞬間、その相手は、モノから人へ変身したように鮮やかに景色の中に浮かび上がって見える。こちらからも返事をしなければならない力を持った存在に変わる。

ところで、「こんにちは」・・など無意味な言葉を交わす挨拶など、時間の浪費だ・・」、合理主義を追求していくと、このような隘路にはまりこむ時があります。じつはRECOCAも高校くらいの子供の時、そんなことがあってしばらくぶすっとしていたことがありました。そのうち、それでは世の中渡れないと気が付いて、見かけは挨拶を欠かさないよう気を付けるようになりましたが、しかしそれは私にとってはずっと世渡りの便宜主義に過ぎないものでした。今回禅語集の教えに接してやっとその真意を理解することができた気がします。かなり遅きに失した感はありますが・・。

罪滅ぼしに今回のブログは読者へのご挨拶から始めました。気が付かれましたか?