頭を’ゴーン’

50億円とはスケールが違い過ぎて世界が想像できない。

・欲望の果てしなき世や秋の風

・英雄の没落早し秋刀魚焼く

他、今朝の雑詠

・懐かしやふるさと歌うそのたびに

・行く秋の別れぞ友の訃の便り

・小春日やオナガの鳥のけたたまし

句会

郷里の市の句大会に投函した2句が入選した。ここでいう入選の意味は、市長賞などの入賞候補として選者が採ってくれたということである。(入賞はしなかった。)

・早起きの妻の濡れ手に初茄子

上の句は6人のうち2人の選者が採ってくれた。

・清貧を生きてほおずき鳴らしけり

この句は1人の選者の採用。

ところで、先週東久留米の文化祭で市民飛び入り句会という催しがあったので覗いてみた。目的は上記の句がどのくらいのものかを確かめるためである。というのは、俳句というのは選者によって選考基準が全く異なるからである。ほんとうは未発表句の投句であることが厳正なルールであるのだが、初心者の無知ということにしてそっとだしてみた。季語の指定が秋、冬だったので、初茄子を秋茄子に替えて。結果は指導の先生特選句のひとつにになった。

これらの句会や俳句の書籍で最近感じたこと。

・俳句はフィクションである。

俳句は作者の経験を述べるものという理解が多いが、これは間違い。経験をベースにするにしてもそこから連想を無限に発展させていくから、経験値とは無関係なところに落ち着く。俳句は詩や小説と同じく文芸であることを想起すればこれは当然のことといえるが。

・類句、類想

俳句の体裁はなしていると仮定して、最も神経を使うのは類句、類想句でないことの確認である。特に選者の先生が最も慎重を期する点であるように思う。類句とは似たような言葉使いの句、類想句とは似たような発想の句という意味。ということは、過去に発表された句をすべて記憶していなければならないということである。もちろんそんなことは不可能なので、選者になるような人はそれなりの嗅覚が必要だということである。つまりこれは句のオリジナリティの根幹にかかわることで、高々17文字の中に厳密なオリジナリティが求められるという厳しい世界なのである。

コンピューターの活用が生かせる分野かも知れない。