認知と認識

認知症のことを考えていたら、ふと認識という言葉との対比について考えていた。私の漠然とした考えでは、認知とはいわば写生であり認識とはそれを深めたものくらいにしか表現できない。写生は写真撮影と言い換えてもいいかもしれない。俳句では写生しろと言われる。しかし、自分の4年半の経験では自然をただ眺めているだけの「写生」では全然俳句として評価してもらえない、だからといって人生観とか哲学的な内容にすると観念的な句だからダメと言われる。これはたぶん具体的な写生とのかかわりが全くないからだろうと思う。ではどうすれば。?
認知と認識の違いについてNHKカルチャーラジオのテキスト(若松英輔著2018年1~3月)には次のように書かれてあった。
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「認知」は社会的な事実を他者と同様に受け入れることを指す言葉です。語感や意識で世界を感じ、判断する力と定義できそうです。人は年齢を重ね身体的な機能が衰えてくると誰もが「認知」の衰えを感じます。一方「認識」はその人が今ここでただ一度だけの経験を全身で感じることを意味する言葉として用います。それは五感と意識を超え、無意識を含んだ全身全霊で行われる世界との交わりを指す表現です。詩においてーあるいは言葉の芸術である詩を含むあらゆる芸術においてーは、認知よりも認識が重んじられます。さらに言えば、認知によって始まった出来事を認識にまで深めていこうとするのが詩作だといえます。ですから認知的な出来事と認識の実感がまるで違うのは自然なことです。
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だから一般的に詩においては、目に見える自然あるいは社会現象からはまるで理解不能な言葉の羅列になっていることが多いのは当然のことなのである。それは詩人の個人的あるいは無意識レベルの深い認識機能によって昇華された言葉であるからだ。
再度俳句に戻る。俳句も芸術である以上「認識」行為の産物でなければ名句といえないはずだ。ところが初心者の私の目にはどうも釈然としないことがある。
例えば、芭蕉の「閑かさや岩にしみいる蝉の声」は単なる写生=認知を超えた表現であることはわかる。(うるさい蝉の声)=認知⇒岩にしみいる⇒(閑かさ=認識)という構図。一方「菜の花や月は東に日は西に」とか「牡丹散って打ち重なりぬ二三片」などはどうか。なんでこれが名句?の気持ちが4年半経っても消えたとはいいがたい。確かに「写生」ではあるが、上記著作の言葉を借りれば「認識」行為の産物といえるのかという生意気な疑問。
さて、最後に認知症
認知症患者とは認知機能の衰えた人のことである。しかし、だからと言って認識機能もないと決めつけるのは即断すぎる。これは5年間認知症施設へオカリナボランティアに通い詰めた結果理解したことである。
認知を経ない、あるいは認知を飛び越えた「全身全霊で行われる世界との交流」がないとどうして言い切れようか。つまり、魂の深い部分では病んでいないのだ。だから、認知症の人に対する対応は尊厳を失わないようにしなければならないと思う。幼児的な言葉使いなどは厳に慎むべき。