雑念

俳句を始めてから4年半がたったのでそろそろ打ち止めにしようと思って、数日前に今日から俳句をやめた、と言い聞かせたら面白いものでぴったりと575の言葉が浮かんでこなくなった。逆に言うとやる気を起こさせるプラスの言葉で心に言い聞かせることは極めて効果的であることを身をもって体験したのではないかと思っている。
なぜそう思ったからというと二刀流ではオカリナの難しい指使いがどうしても克服できそうにないからである。オカリナの演奏といいながら時々リコーダーを加えているのは、自分のオカリナの技術(指回し)では曲にならないから便宜上自分の手に負える楽器に逃げているだけである。今用意している2曲もそうだ。そこで、この半年の課題としてこれを克服しようと思った。
俳句は脇に置いたので、詩の本をちょっと覗いてみた
「詩と出会う、詩と生きる 若松英輔 NHKカルチャーラジオ」
なるほど、詩は比喩の程度が俳句とは比べて段違いに広い。一方俳句は座の文学なので万人に理解できる表現が求められる。その範囲で詩性が求められ、しかも独創性が求められるので早晩行きどまりそうに思える。なので、これからまた前衛俳句が台頭してくるのではないかとちょっと思った。
さて、上記詩の本で例題に上がっている詩。
石と霧のあいだで、ぼくは
休日を楽しむ。大聖堂の
広場に憩う。星の
かわりに
夜ごと、ことばに灯がともる
人生ほど、
生きる疲れをいやしてくれるものは、ない
(サバによる「ミラノ」と題する詩)
劈頭の言葉の「石と霧」。わたしがこの一節を眺めても、単に霧の深い天気の時の石畳としか思えないので、なんでこんな悪天候の時に憩うのかとしか思えないが、解説によるとこれは比喩で、もっと深い世界を表している。すなわち、ここでの石は聖者の暮らす現世界。霧は死者の国と現実界の境にあるものとして描かれている。こういう比喩は俳句では極めて前衛的だが、しかしとても魅力的に思える。こういうことが自分の解釈力で読解できれば詩の世界も手におえるのだが。
最後の2行は作者詩人の人生観を強く表している。解説では次のようになっている。
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この2行は生きることの、あるいは人生の不思議を実によく表現している。人は生きていれば誰もが耐え難い悲しみを生きなくてはならない。しかし、悲しみの奥に人が探している、朽ちることのないものがあることも確かだといっているのだ。サバは悲しみを慈しむ詩人だった。サバにとっての悲しみは大いなるものから与えられた恩寵に他ならないから。それほど尊いものなのだという。悲しみを経験するとき人は同時に愛を生きている。愛するものを失ったとき人は真に悲しみを生きているといえるのではないか。
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