「永遠に生きたいですか」という問い

「15分間哲学教室」という本の第11章「永遠に生きたいですか」。

こう聞かれたらどう答えるだろう。これは、その人の人となりが現れる究極の問いかも知れないです。死に直面する人に対するカウンセラーの優等生的アドバイスは次のようなものといいます。「死が避けられないという現実を穏やかに受け入れて、「良い死」を迎える準備をしなさい。」残念ながら「良い死」の具体的例示はここにはありません。ヒントはあります。それは普段の生活態度です。たとえば、哲学者ハイデガーは「本来的な生」と「非本来的な生」を区別しています。「本来的生とは自身の価値観と選択に従って生きることであり、非本来的生とは周囲の状況に流されて生きることだ。」良い死、とはつまりよく生きることによって得られるものとすれば、ハイデガーの言う本来的生を基準にした生き方でなければならないはずです。

「死にたくない」という気持ちは、死への恐怖に基づくものが大きいでしょう。しかしそれはよく考えれば無意味な感情だという人がいます。ギリシャの哲学者エピクロスは、死を恐れるのは当然だが合理的ではないといいったそうです。「死は何も意味しない。私たちはここに存在するが、ここに死はないからだ。一方、死がここにあるときには、私たちはすでにいないからだ。」このように述べましたが、一見これは詭弁に見えますが真理を穿っていると思います。例えば毎晩眠りにつくことを考えてみましょう。私たちは明日目覚めてこの世に今だ存在していることを何の疑問も不安もなく目を閉じますよね。しかしなぜそんなことが保証されているのか。眠りについてそのまま永遠に眠ったままになる。エピクロスは死とはそのようなものだから恐れる意味がない、と言っているのだと私は思いました。

生きることに何の目的があるのか。

これも昔からある根源的質問です。哲学者の答えは二通りあるようです。

・生きる目的の有無自体が不明。目的不明のままこの世を生き抜くほかない。自分の人生に目的があると感じているなら、生きる目的など問うことはないはずだ。人生に目的があると感じていないのなら、自分を偽らずに生きること、よりよく生きること、正しいと思うことをすること。それが人生の目的である。

つまり、目的発見のため時間を浪費するのでなく、自分を偽らず正しいと思うことを自分で判断して生きよということです。

・一方、目的を探せという人もいます。例えばドフトエスキー。

「人が存在するには、ただ生きながらえるのでなく、生きる目的を見つけなければならない。」

まだ最初の問いに答えていないですね。「永遠に生きたいですか。」

多分すべての哲学者は永遠にこの世に留まることなどごめん被るという答えでしょう。「しかし、それよりもっと恐ろしいのは、パーティは永遠に続きその会場から離れることができないと告げられることだ。それが地獄のようなひどいパーティであれ、完璧な天国のようなパーティであれ。永遠の義務だとわかった途端興味が薄れる。」クリストファー・ヒッチェンズ

たしかに時間が無限にある状態に私が置かれたらどうなるかを考えてみると、何事も先送りの怠惰な生活になるのではないかと思います。期限があることで物事の優先順位が決められるのではないでしょうか。その期限が生命の終わりを意味するものだったら、それを意識たときに人ははじめて真剣に生き始めるのではないかと思いました。