時の流れの尻尾をつかむには

今日からはや10月。緊急事態はなくなったが、カレンダーがだんだんに少なくなっていくと、あたかも残りの寿命を数えられているようで心寂しくなる。

 

季節の移ろいが年を取るにつれ加速するのは誰もが実感するところであるが、このことをうまいたとえ話で説明している本を見つけた。

すこし前に紹介したアレキシル・カレル(1937年、原著)人間・この未知なるもの(1980年渡部昇一訳)である。カレルはノーベル医学、生理学賞の著名な学者。

 

大意は次の通りである。

「時の流れは、あたかもゆったりとした大河の流れだ。河の両岸を下流に向かって人が歩く。朝方は体力気力が充実しているので元気良く、河の流れの速さに負けない速さで進む。お昼ごろになると疲れてきて遅くなり、水の流れと同じ速さで進むのが精一杯になってくる。さらに疲れて夕方になるともはや歩が進まず、河の流れの速さと較べてため息をつくしかない。」

全くこの通りだと思うが、では「人の歩く早さ」とは実際なんだろうか。カレンは、生理的、心理的要因に言及している。生理的要因とは体液の流れの速さのことで、年とともに体液の流れが遅くなり、それが体内時計の遅延をもたらす。これはもって生まれた体質なので余り左右できない。

重要なのは心理的要因によっても体内時計の遅延は起こるのではないかということである。

 

ここからは私の全くの素人解釈であるが、これは喜怒哀楽などの感動を受ける頻度に関係しているのではないかと思う。仮にこの感動の頻度がゼロだと体内時計は全く進まず、岸に坐って時の流れという大河を見つめるだけになる。こうなるとただ時の移ろいにため息をつく私たちと同じだ。

 

ところで、注意すべきは猛烈に多忙という状態。いくら多忙でも内容が感動のないマンネリでは同じように体内時計は進まないのではないだろうか。自分の環境が社長から平社員に(その逆も)なるくらいの変化があって始めて感動が生ずる。

 

幼少の頃を思い出してみると「もういくつ寝るとお正月」のたとえどおり、世に生起することが全て感動の連続だった。それが今ではどうだろう。結局同じ環境、同じことの繰り返しでは、無感動にカレンダーの残りを嘆くしかない。さらにコロナ自粛の追い打ちが決定的だ。私の今年の手帳。見事に白紙。これでは感動の生じようがない。