俳句考(2015年記事採録)

2015年3月。丁度俳句を初めて 3カ月。初動の乗りでなかなか熱心に勉強しているようで自分ながら感心している。これが続けば上達間違いなかったのに・・。頭でっかちで実技が伴わなかったということか。当時読者ほとんどゼロだったのでもう一度日の目を見させてください。こうして過去の記事を読んでいると文章表現に丁寧さが欠けていることがよく分かって貴重な反省の機会になる。

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以下2015年3月記事採録

①引き算の芸術

俳句というものをつまみ始めて2ヵ月が経ったのでその感想。

まずお断りしなければならないのはぶろぐ最後の句は、パソコンに座ったときのほぼ直感であって、推敲添削前のいわゆる原句であること。

したがって、他人が見てはいけないものであるが、この欄は私的備忘録を兼ねているので、めんどうなので構わず人目にさらしている。なので、お目に留まったら、笑読するか、無視願いたい。

さて、感想であるが、俳句とは数学、哲学、文学の総合芸術であるということにつきる。なんかの拍子で足を突っ込んだ人は泥沼状態で足抜きが不可能なほどのめりこむ、とよく聞くが、なるほど底知れぬ魅力にあふれている。

 

俳句とは引き算の芸術、との解説をどこかで読んだ。つまり、あれも言いたい、これも言いたいの諸々をいかにうまく捨て去って本質のみを残すかである。これが分からないと、名句の名句たるゆえんが分からないだろう。

つぎに、俳句では喜怒哀楽、感想を作者が述べてはいけないということ。これには驚いた。俳句をかじる前とは180度見方が変わった。

つまり事実のみを述べて、そのなかに喜怒哀楽、感想を「読者」に想起させるのである。時間の経過さえも、時間の断面で表現しなければならない。したがって、表現は底深く哲学的にならざるを得ない。

ところで現代俳句では、単なる連想のとっぴな飛躍や早口言葉のような言葉遊びの句がはやっているようだがどうかと思う。とくに子供の句におもねるような風潮はいただけない。最近のNHK俳句にも散見されるのには驚き。10年前に見たときはもっと重厚な番組だったが。

もう一つの感想はオカリナやリコーダーに似ているということ。どういうことかというと、ど素人でも勝負出来る領域があるのではということ。

オカリナ、リコーダーは原始的楽器であるがゆえにその音色で勝負する余地がある。プロは音色+名人芸で勝負するが、後者のないアマでも音色ゆえに感動してくれるお客は少なくないのである。

俳句についてはどうか。高段者の句はなるほど語彙も豊富、言い回もはっとさせる新鮮さがある。しかし稚拙な語彙でもけっこうさまになるという雰囲気が高段者の句にも散見される、といったら怒られるだろうか。この辺をうまくついていけば、難しくて取り付く島もないということにはならないという気がしている

・リコーダーほっと一息風薫る

「俳句では感情・感想表現をしない。」

これを確かめるために古今の名句を集めた「俳句いろはかるた」を調べてみた。

水原秋桜子監修の昭和52年俳句文学館著のかるたである。なるほど、全50句中1句を例外として喜怒哀楽の語はなかった。

例外句は「よろこべばしきりに落つる木の実かな」。よろこべば、という仮定表現だからゆるされるのだろうか?

啄木の歌に、「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる」というのがあるが、この情景と心象を「泣く」の語なしに表現できるだろうか。

俳句では、短歌の後半の7,7も無いし、季語も必要だ。よって、「泣く」をはずすと実質的に使えるのは「かにとたわむる」だけ。

そうすると、小生の技量では啄木的心象にはほど遠い子供遊びの句になってしまう。→「五月晴れ蟹とたわむる川遊び」

一方、「泣く」を許されると状況は一変する。

例えば→「磯に泣き蟹とたわむる秋の暮れ」てな具合になり、多少は悲哀感が出る。さらに「磯」も省いてしまえば→「泣きぬれて蟹とたわむる秋の暮れ」とでもなり、さらに啄木に近づく?

小生の技量では、泣かないで蟹と戯れると、こっけいな句にしかならないのである。どなたか俳句達人の教えを請いたいものである。

不自由さといえば季語もそうだ。芭蕉のころからのルールかもしれないが、別になくしても支障ないばかりか表現の領域が広がると言う視点も当然存在する。

こういう諸々の制約を逃れるために現代俳句が成立しているのではないかと勝手に思っている。ただし、クラシックと現代音楽の関係とおなじで、あまり前衛的にすぎると、知がたちすぎて「癒し効果」が薄れるので、個人的には好まないが、季語に拘らないという程度の「前衛」であれば歓迎だ。

・春耕や悠久の富士雲白し

③写生

俳句にも写生というジャンルがあるが、確立されたのはそんなに古くはなく明治以降だそうである。たしか子規が導入したとか?

言葉で風景を描くというのは、やってみるとわかるが、非常に難しい。いわゆる絵でいうデッサンの訓練を相当つまないとうまくいかないとどこかに書いてあった。

確かにそうで、私がその辺の風景を見ても何も言葉が浮かばない。だから、写生でなく心象風景や抽象に逃げてしまう、ということになる。初心者の欠点だろう。だからアマの句会で吟行というのがはやっていて、句作のために景勝地へ出張るそうであるが、小生が参加してもとてもうまくいくとは思えない。

近所に平林寺という格好の吟行適齢地がある。ここには四季折々何度か行っているので、かりに私が吟行したと仮定して、ちょっと句をひねってみたが何も出来なかった。

ところで、ネットには多くの平林寺吟行の成果が掲載されている。例えば

http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7dPif7GhQZVXU4AkReJBtF7?p=%E5%B9%B3%E6%9E%97%E5%AF%BA%E3%80%80%E4%BF%B3%E5%8F%A5&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=

難しいプロめいたものでなくて、実際この程度の写生句でいいから、自由に風景が写し取れるようになりたい、というのが一つの理想だが、体調の回復につれて本来の活動に戻らねばならないので、そろそろ俳句は終わりにせざるを得ないかもしれない。

・起き抜けの温み覚える彼岸かな

④季語

「一億人の季語入門」という題名に引かれて、この本を読んでみた。俳句に於ける季語の位置づけ、いかに大事な要素かくりかえし素人に語りかけてくれている。季語を逃れようという魂胆がいかに浅はかであるかを認識させられた。

キャッチコピー「季語は未来への贈り物。ー季語は日本人の想い出が刻まれた言葉。季語の宇宙はあなたの俳句を待っている

には、まいった。はい、これからは心を入れ替えて、しっかり季語に向き合います。

だから、しっかり構築された季語の宇宙を飛び出すことが、いかに決死の冒険であるかは、現代屈指の前衛俳人をもってしても、季語なし句はいまだ実験段階と言わしめていることからも分かる。

「季語には本意(本来の意味)がある。」

これをしっかり理解しないとボケた句になる。

例えば「春の雪」という季語。=立春後の雪、冬の雪と違って、どこか明るくはかない印象がある。これが、この季語の本意。

春の雪青菜をゆでていたる間も 

(細見)

葉っぱをゆでている間も雪が降っている、というだけの一見つまらない句にみえる(実は最初そう思った。)が、「なべの中で踊る青菜の青に春の到来を見て取った句。春の雪の春の一字が躍動している。もし春の雪でなく、昼の雪のような冬の季語であったら、ただの説明のつまらない句になってしまう。」

というように、「春の雪」の意味をちゃんと理解していないと句の鑑賞は出来ないということ。

俳句には、このような暗黙の約束事が色々ある。この世界にしっかりと足を突っ込まないと、句作はおろか鑑賞も出来ないという、一種のマニアックな世界だ。短歌と全く違う所以だろう。そういう意味では、短歌が文科系の文学とすれば、俳句はどちらかというと理科系の文学といえるかもしれない。

・春の雪急いでつくる雪だるま 

「春の雪」は溶けやすいという季語でもあるので、急いでゆきだるまを作った、という句のつもりだが、川柳みたいな感じだね。

北の方は季節はずれの寒波と大雪の報。「春の雪」は通じない。

・雪国や弥生の春の遠きこと

・春の雪泡沫(うたかた)の夢と消えにけり