病気回想(夭折童話作家新見南吉の記事を見て)

RECOCAは1946年に小学校に入学している。と同時に結核の超初期である肺門リンパ腺炎という病気に罹患した。そんな早期発見がしかも子供になぜ可能だったのか全く聞いてないので分からないが、なにか自覚症状があったのかもしれない。結局病院への通いの療養と安静で学校をしばらく休学した。なぜこんなことを思い出したというと、件名の新見南吉の新聞コラムを見たからである。この作家のこと名前だけで他のことは知らなかったが、この新聞コラム(朝日の天声人語)をみて、にわかに興味がわいた。その1⇒出生と活動地がRECOCAと同じ愛知県知多半島であること。その2⇒20代で結核でなくなっていること。タッチの差で特効薬ストレプトマイシンが間に合わなかったこと。

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これを見ると結核の特効薬ストレプトマイシンの世に出たのが彼の死の翌年の1944年、RECOCAの罹患の2年前であったことに運命の違いを感じた。しかし、だからといって米国の薬ストレプトマイシンが敗戦国日本のしかも知多半島の片田舎に潤沢に供給されたとは思えない。実際私の場合も使ってない。実際に病院になかったからかどうかは定かでないが、仮にあったとしても使わなかっただろうと後で聞いている。病気の初期のうちに使ってしまうと再発重症化の時、結核菌の薬に対する耐性の影響で効かなくなってしまうからだ。なので当時みんながやっていた対症療法でお茶を濁していた。それは人工気胸という療法で、肋骨の間に針をさして肺に空気を送り込み、肺の活動を弱め結核菌の悪さの動きを制御するものである。胸に針を刺すと聞くと痛そうだが、そうでもなかった。毎週一度1年以上続けた。但し今の知識では全くの気休め療法でほとんど効果はなかっただろう。一緒に病院で見た大人の患者さんは次々亡くなっていった。現在の抗がん剤と似たようなものといったら言い過ぎか。ということはこの特効薬は当時知多半島には出回らなかったということだろう。とにかく事実は子供のRECOCAだけ?が生き残った。理由は天真爛漫に安静を無視して外へ出歩き野球をやっていたからである。医者と医療は基本的に疑うべしという天邪鬼の性格はこの時深く浸透形成されたものだから筋金入りであることを自負している。さらに言えばこの時期レントゲンの放射線を散々浴びて蓄積しているから、成人後の健康診断では放射線による検査を極力排除している。新見南吉さんについていえば結核罹患が10年遅ければ夭折を免れた可能性が高い。