無魂洋才☜五木寛之氏のエッセイから

養生のヒントという五木寛之氏のエッセイから。

第一章生、第二章養生、第三章病、第四章老、第五章死と続く。

人の一生の歩みのエッセンスを誰にも分る易しい筆致で掘り下げる珠玉の読み物です。

掲題「無魂洋才」は第五章死の第5節として述べられています。ちなみにこの章の各節の表題を掲げておくので、それらがどんな内容なのか自分なりに想像してみてください。おそらく読む人それぞれによって受け取り方が微妙に違うと思います。こうしてまず自分なりの考えを抱いてから著者の考えを読めば、より深く血となり肉となるのではないでしょうか。

1.寝る前と起きる前に死を考える、2.がんは死ぬまでの用意ができる病気ととらえる、3.不安に襲われ死を選ぶ時代、4.乾いた心が死を軽んじる、5.魂をなくした現代人、6.肉体の声なき声に耳を傾ける、7.死のキャリアとして生きる、8.余命は統計的な数字に過ぎない、9.人生60年でいいのではないか、10.「今死んでしまっても仕方がない」、11.成人病は「もういいよ」という兆し、以下略。

さて無魂洋才について。

戦後日本の在り方を無魂洋才ととらえます。その心は中心に魂、たとえば大和魂がないために洋風にあっち流されこっち流される日本人とでも言いましょうか。多分外国から見たら滑稽な存在ではないでしょうか。

「~戦後日本人に魂がなくなった弊害を強く感じています。」

明治期は和魂洋才でしたね。急激な洋風化にも一本和魂の筋が通っていました。外国からの尊敬と恐れが伴った文明開化だったと思います。それが敗戦とともにGHQの差し金もあって和魂が排除されました。そして変わるものがなく日本人としての筋金の欠けた「無魂」のままになっているのです。無魂の高度成長。こう考えると、特に小泉政権以降の日本の歩みをすべて理解できます。現在の政治、経済医療、コロナ、ワクチンなどすべての面においてもです。

「無魂だとブレーキが利きません。それが経済発展の利点だったという側面はあると思いますが、それでタガを外してアクセルを踏みっぱなしにして暴走してきたのが戦後日本ではないか。」

さらに、現代は簡単に答えの出るテレビ的思考しか受け付けない、そういうイージーな生き方に蝕まれているとも筆者はいわれます。この点についても大いに同感です。マスコミや書籍のハウツウもの満載はその典型ではないでしょうか。ハウツーものから批判精神は醸成されません。上から言われればいいように流される。つまり、すべての考えがテレビ的なのです。次の指摘はとても示唆に富んでいると思います。

「人生の問題を、まず結論ありき、ノウハウみたいに言うことはできない。現実社会は思い通りにはならない。簡単に答えが出るテレビ的世界はやはり仮想現実だと思うのです。」