一つの感想について

面白い本を見つけた。

「命には続きがある」矢作直樹(東大医学部名誉教授)&一条真也(作家・葬祭会社社長)

58頁から抜粋引用「私には子供のころからどうしても気になっていたことがありました。それは、人がなくなった時不幸があったということでした。私たちは必ず死にます。いわば、死を未来として生きているわけです。その未来が不幸であるということは、必ず負け戦に出ていくようなものです。私はそんなバカな話はないと思いました。(中略)私は死を不幸とは絶対に呼びたくありません。死は決して不幸なな出来事ではありません。愛する人がなくなったことにも意味があり、愛した人が残されたことにも意味があるのだと確信しています。そして、人がなくなっても「不幸があった」と言わなくなるような葬儀の実現を目指しています。

 死が不幸なら、「ご冥福を祈る」というのはおかしくなりますね。」

これはまさに卓見でRECOCAは120%同感である。ただし、それには、死者=霊魂の存在を認め、過去から死後の世界へと連綿と続くいのちの連続性の知識と確信がない限り単なる戯言になる。それを得るにはどういう手段があるのか。これを探るのが最も重要で、生きてるうちにやるべき本質的な終活である。巷でよく言う、物の取捨選択放棄に時間を費やすなどは時間の浪費もいいところだ。

葬儀に僧侶が来て経を読む。そのお坊さんに聞きたいことがある。あなたは霊の存在と命の連続性について知っているのかと。そのうえで経を読んでいるのかと。この本には驚くべきことが書いてある。「ところが仏教の僧侶でさえ、死者=霊魂というのは、私たちの心の中にしか存在してない。つまり現実ではなく心の妄想に過ぎないという人が多いというのです。」

この事実を忖度するなら、葬儀の読経は参列者のためのものだと・・。だから最近宗教なしの葬儀に移行するのだ。これは仏教に限らず、キリスト教でも似たようなもの。霊魂とか死後生という概念が非常に抽象的なのである。そういう牧師の葬儀司式や説教では何も私たちの心に響かない。イスラム教については知らない。このことについて論じ始めると長くなるのでここでやめておく。

但し、葬儀は生きている参列者のための供養というかグリーフケアでもあることは100%認める。そのことに関連して本書で提案していることは奇想天外で、ひょっとしたら将来そうなるかもしれないと思ったりした。

77頁から引用「あえて誤解を恐れずに言うなら、今後の葬儀を考えた場合には、「幽霊作り」というテーマがあります。もちろん恐怖の対象ではありません。むしろその逆の優しい姿、懐かしい死者の生前の姿で「優霊」とでもいいましょうか。もちろん本物ではありません。」

これは近年発達したのホログラフィーの技術を使えばすぐに実現できるだろう。TVでは時々みますよね。亡くなった俳優や歌手が3次元の形で、あたかも生きているようにTVに現れてびっくり仰天することがあります。

つまり、私が言いたいのは死者や生き残った参列者に対するグリーフケアに霊魂・死後生についての中途半端な思想信条の宗教者はもはや不要だということ。