つぶやき・・

天皇陛下退位が2019年3月末の報道があった。それに伴って元号がまた変わるが、そもそも元号というものがいまだ必要なものなのかはなはだ疑問に思っている。これこそ国民投票で決めたらどうか。」←これがつぶやき。

 

まず、元号で生年月日を覚えている人は、長ずるにしたがって自分の年が分からなくなる。私の家にぶら下がっているカレンダーの半数には元号表記がなく、あっても虫眼鏡が必要なくらい小さく表記してある。つまり、実用上の必要性は全くないという前提のカレンダーになっている。

 

ところが、役所の文書にはなぜか元号表記が必須で、この年になると戸惑うことが結構多い。とにかく覚えることはひとつでもでも少ないほうが良いのだ。

 

一つ有用性があるとすれば文化としての位置づけであろう。たとえば、俳句などで物事を回顧してノスタルジーを表現するには元号は便利な代物である。たとえば、超有名な句で「降る雪や明治は遠くなりにけり。」がある。拙句でも利用させてもらった⇒「甚平の似合う横丁昭和の日」。

私の結論⇒元号はあっても構わないが、文書の表記は西暦一本に統一してもらいたい。つまり、ことしは平成何年だったか思い出せないと役所の文書提出に支障をきたすようなことにならないようにしてもらいたい。

野分(台風のことを俳句ではこういいます。)の句

・野分来て運休の札無人

・野分中オカリナ一人のボランテイア

・蝋燭を一夜の供に野分の夜

・オカリナの音生き生きと野分後

・一夜明け野分のあとを耕しぬ