もみじ

東久留米は昨日から3日間だけ、秋です。どのくらい秋かというと今朝8時、窓を開けていると寒いです。湿度は30%以下。

突然の気候変化に誘われて「もみじ変奏曲」をユーチューブアップしました。本当は9月後半までアップは待機しようと思っていたのですが。

音源は昨年東久留米公民館ホールでのライブ録音です。500人規模のキャパシティなので、音響効果はなかなか良いです。

映像は近くの禅宗平林寺境内の紅葉です。

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もう一つ秋に因んで。

コキア(ほうき草)のライトアップ。ほうき草は緑の丸っこい葉が特徴ですが、秋には紅葉します。

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朝日新聞の「?」

817日の一面トップ記事です。

 

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なんで、中国のべた記事なの?「べた記事」の意味は緊急を要しない、という意味です。日本を代表する大新聞のトップ記事としてはおよそ緊張感に欠けるのではありませんか。この記事が相応しい理由を知りたい。単に中国大好きという理由でなければいいのですけど。

 

こんな紙面一面に目につく記事もありました。

 

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中国のラーメン屋の普及が何が面白いのですかね。同じラーメン屋の普及なら、たとえばカナダのカルガリー市など最近の日本の店の普及は急速だときいていますが・・。つまり、中国のはなしに特化する必然性はほとんどないと思うのです。

 

さて、けちをつけておいてなんですが、文化面の特集はやはり魅力的です。

 

AI講義の続き。けさは、チンパンジーとの比較で人間の特徴を浮き彫りにすること。

 

「人間らしさはどこにあるか」京大特別教授 松沢哲郎

 

「コミュニケーション力。共感力、相手の心を理解すること。「分かち合う心」を持つように人間は進化してきた。いちごが食卓にあったとき、いちごを口に入れてもらった子供は、はい、お母さんも、お父さんもとなるでしょう。こういう互恵的な利他性が成長していった。これが人間らしさである。これはチンパンジーにはない。人間の未来が不安?安心してください。思いやり、慈しむ、分かち合うことで人間という集団は生き残ってきた。心に愛を持つように進化してきた人間はずっと続いていくんです。たとえどんなに状況が悲惨でも未来に希望が持てる知性があるのが人間じゃないでしょうか。」以下、RECOCAの見解。

AIに戻るが、これらの心情をプログラムでシミュレートして人間らしく振舞うAIロボットはいくらでも精密に作ることはできる。さらにいったん出来上がればAIが自ら進化していくことも可能といわれている。しかし、これを作ろうと意図した、いわば最初の一撃は人間によるものでこれなしにはAIロボットは実在しなかった。ここが人間とロボットの決定的違いである。最初の一撃は、いわゆる人間魂のなせる業である。機械には決してできない。

ますます50年後の再生願望強くなった

今朝のRECOCAの句

・横文字の溢れし銀座晩夏光

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朝日新聞に毎朝AI関連の「授業」が連載されている。今朝のを見て、ますます50年後の世界を体験して見たくなった。

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朝日新聞は中国寄りに偏向していると思うので、記事には眉に唾を付けて見ているが、ニュース以外の記事に時々こういう好奇心をくすぐる面白い企画があるので捨てがたいものを感じている。

さて、今朝のAI応用編→「機械に私の喜怒哀楽が宿る」

これはいよいよAIが人間と同化しようというものである。そんなことはできるはずないと思っていたら、渡辺正峰東大教授は20年後に実現できると断言する。「意識とは物事を処理するときに伴う感覚体験です。喜怒哀楽のような感情も意識の一部。人の脳の行う機能の多くは機械によって実現できます。・・」ただし、現状では例えば自動運転はできるが、ドライブが楽しいという感覚は機械にはない。手法的にはどうするのか。結局開頭して脳と機械をつなぐことになる。

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こうすれば肉体の死後も機械に移植された意識の存続が可能で、ある意味死後生存が実現する。渡辺教授の研究の動機は意識の死後存在の実現だったようだ。

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さて、RECOCAは機械による人間意識の保持はできないと思っている。なぜなら、これはRECOCAの思想であるが、意識の根源は、脳の電気信号ではなく、魂(霊魂)だと思っているからである。

さらに、仮に渡辺説の電気信号説が正しかったとして、機械に意識が移植出来て、そののちその個人が亡くなったとしよう。この状況は我々のイメージする死後生存(不老不死)といえるだろうか。少なくとも私にはそうは思えない。意識に基づく行動が伴わないからである。例えはよくないかもしれないが、いわば筋繊維萎縮症末期と同じもどかしさを感じているのではないかと思う。さらに飛躍するが、神の本質は「無限意識」といわれている。神は意識のみでは飽き足らずに、その具現のために人間を創造したという説があるくらい、「意識の具現」は本質的なことなのである。

 

 

50年後に再生したい

・農園の報告。冬瓜(とうがん)が豊作です。

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・RECOCAは50年後に再生したい。(つまり、生まれ変わりたい。)今日の真夏の昼の夢です。
この再生願望は、けさの朝日新聞文化文芸欄「AIと労働」を読んだ感想です。
なぜそう思ったかというと、遅くとも2060年にはAI(人工知能)があらゆる分野に普及して、クリエイティブな仕事、人間らしい仕事以外なくなって、ほとんどの人が失業してしまう。その対策として全国民に生活費として基本給(ベイシックインカム)が支給される世の中になるだろうとの記載があるからです。ベイシックインカムとかっこよく言い換えていますが、つまりはいまでいう生活保護費。現状と違うのは、ほとんどすべての国民がベイシックインカムに頼る時代になるということです。なぜなら、AIが普及しても生き残る職業は、小説家、新商品開発、研究者などのクリエーティビティ系、工場管理、会社経営などマネジメント系、看護師などホスピタリティ系など、仕事で生計を立てられるのは全体労働者の1割程度と目されているからです。これらスーパースター労働者と資本家が殆どのもうけを独占してしまうとのこと。ですからその他大勢は「基本給」で生活を余儀なくされることになります。しかし、決して卑屈になる必要はないのです。古代ギリシャではそういう時代でした。市民階級は労働を奴隷に任せて優雅に趣味に没頭していた。つまり、未来のAIは過去の奴隷の仕事をしてくれるわけです。
自分のやりたいことに百パーセント時間をつぎ込んでも生活できる環境、これがRECOCAの理想郷なんです。結局これは典型的怠け者の描く理想郷なんですね。だから、そういう怠け者でも堂々と胸を張って生きてける時代に生まれてみたいと思うわけです。問題は基本給の支給額レベルでしょうね。あまりに惨めったらしいんでは御免被りたいし、そんなにうまくギリシャの市民生活レベルが満喫できるかどうかが鍵です。

ただし、こういう大失業世界にはならないという説もありますので念のため。

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沖縄に避暑に行きたき酷暑かな

・昨日は東京都心で短時間大雨雷警報が出るすごいことになっていたが、その端くれである東久留米でもそのおこぼれを被った。一瞬の停電も。そのあと急に涼しくなったので、被害なければ大雷雨大歓迎だ。おまけに、窓を開けていたら夜冷え込んで布団を引っ張り出す騒ぎになった。今朝の温度計を見たら26度。これから暑くなる。しかし午後は昨日と同じ予報みたいだから涼しい夜が楽しみである。

9月が近づくと、また俳句の投稿時期なので、今朝の涼しい時間を狙って予行演習を行った。成果は次の通り。

・海鳴りやつるべ落としの無人

・名月や携帯電話切りにけり

・夏雲や悲しみ浮かべ湧きにけり

第1句。郷里、知多半島の情景です。第3句。夏は年配者にとって悲しみの多い季節でもあります。

これだけだとなんか頼りない記事なのでおまけに、「ZENGO」から人との会合に関する禅語を三つ。秋にかけて、人恋しい時期でもあるので。

①相逢不相識共語知名(あいおうてあいしらずともにかたりてなをしらず)

「お互いのことを何も知らないまま出合い、肩書や名前もしらないままで語り合う。」禅ではこういう会合を理想としてるか奨励してるのだろうか。確かに、知識をひけらかすだけの会話や、損得ずくの情報交換などの会合などは心に残らない。では何のために語るのか。何の為でもない対話、これほど心弾むことはない、と禅は教えている。

これを読んで、はてなのコメントの対話がピッタリではないかと思った。互いに名も性別も素性もなしに感想を交わす、現代的禅の具現。

②一期一会

もっとも有名な禅語。千利休の言葉。幾度同じ相手と茶会で交わろうとも、今日この時の会に戻ることはできない、の意。

③喫茶去(きっさこ)

これは難しい語だ。「まあ、お茶でも飲んでいらっしゃい」あるいは「喫茶(お茶を飲みに)行きなさい」という意味。ある高僧は、新参の僧がくるといつも、ここに来たことはあるかと問う。これに「はいあります」「いいえはじめてです」いずれの答えに対しても「喫茶去」とだけ答えた。それをきいていた僧がなぜ同じ答えをするのかと尋ねたらやっぱり「喫茶去」とだけ答えた。さてこれは何だと思いますか。禅問答ですから素人にわかる明快な答えはない。ヒントとして次のような記載がある。

「座禅は一人修行だが、茶を飲むということは二人でする修行だ。私たちは日々日々変化する生き物。今この瞬間の自分と同じ自分にはもう二度と会えない。だから、人と会うということはもう二度と繰り返されない、たった一度の機縁なのだ。そんな特別な時空でただ一度だけできる修行が喫茶なのだ。これほど緊張感に満ちた修業があるだろうか。」

上記から、結局高僧は「もっと修行を積むように諭した」と解されるのではないかと思う。

さて、RECOCAもここらでコーヒーでもいれようか。

 

新聞投書から

昨日の朝日新聞読者投書欄「声」に、開業医と大病院(専門病院)との連携の不備を訴える投書が載った。RECOCAも前々からおなじような感じを抱いていたので考えてみたい。投書は次のように述べている。

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投書の例は、紹介状制度の不備がとても気の毒な形で表れてしまった例だと思う。根本的な原因は開業医の、家庭医としての技量不足である。投書のように小児科、眼科とたらい回しになってしまうのは、入り口で一元管理できる家庭医がいないということ。自分の得意分野を少しでも外れると他へ回してしまう。それが的確ならまだしも見当違いの診断で関係ない専門医に紹介してしまう。投書に記載されている診断で、素人がみてもおかしいと思えるのは、頭痛吐き気に加えて視覚障害が現れているにもかかわらず脳神経疾患を第一選択肢にしなかった眼科医の判断だ。頭痛・吐き気・視覚障害とくれば脳神経系疾患を疑うのは、それはもう常識でしょう。

RECOCAは仕事でカナダに滞在したことがある。カナダでは徹底的な家庭医制度登録制がとられており、患者は症状、疾患部位に拘らずまずその家庭医に見てもらう。家庭医は非常に高度な総合医療の専門教育を受けており、日本のように、自分の専門は脳外科だが患者が多そうだからとりあえず内科の看板でも出しておくかという「でも内科医」は存在しえないのが大きな違いである。

日本で開業医と大病院の役割分担が取り上げられた発端は、大病院における3分診療3時間待ちの弊害からであった。なぜそうなるのか。開業医が総合医療を知らず頼りないからに他ならない。そこのところをきちんとケアしないで単に家庭医制度だけ真似しているのが日本の現状である。仏作って魂入れず。たとえば医学部で総合医療の訓練はゼロだし、開業医としての臨床訓練もゼロ、ただ博士論文を書くことだけが医者の勉強だと思っている。今の開業医でさらに問題だと思うのは、紹介してくれるのはいいが、紹介先が必ずしもベストと思えないことである。黙っていると医者と懇意な病院に入れられてしまいがちに見える。患者が、ここへ紹介状を書いてくれ、といった場合どうなるのか知りたいところである。

今のところ結論として言えることは、大病院は紹介状なしの患者をやみくもに拒否する制度ではないことを有効活用することだろう。少しでもおかしいと思ったら、初診料五千円か一万円払ってでも、自分が目を付けておいた専門病院に紹介なしで飛び込むことだろう。