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動物病院院長の本

東久留米市のうちの近くに動物病院がある。このほどそこの院長先生が本を出版された。

「動物病院を訪れた小さな命が教えてくれたこと」

磯部芳郎 現代書林 2016年10月

動物に寄り添った愛情深い診療をすることで知られた先生である。最近の動物病院の診療費が異常に高いことを著書の中で憤っておられる。

 

無駄な延命治療や高額な手術。1件80万円の手術費を請求される例も珍しくないそうだ。高々、5万円程度で本当は済むのに。一度そのことを新聞に投書したら、学会の半数は良く書いたと賛意を示したが、半数は無視か余計なことをして・・、という反応だったそうだ。

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磯部動物病院にはちょっとした思い出がある。もう25年も前のことだが、重病で入院させていた飼い猫が夜死んでしまったとき、夜中にもかかわらずわざわざ車で遺骸を届けに来てくれたのである。どこの病院も同じかどうかわからないが、ずいぶんと丁寧なお医者さんだなと思った記憶がある。

さて、本書に中にとても示唆に富んだ一節がある。

「いそべ式犬との共存ルール

①生き物に深い愛情をもち、常に安定した心で接すること。

②好ましい状態で接すると動物から信頼を受ける。

③動物が信頼している飼い主から叱られたときだけ動物は反省する。

④信頼関係の中で動物を自分勝手なことをさせず強く叱ること。体罰も仕方ない。

⑤信頼を寄せていない人に叱られると、なおさら反抗的な悪い性質になる。

もし、その犬が悪い犬になったら、犬に問題があるのではなく、人間側に、つまり飼い主に問題がある。」

さて、① 生き物⇒「子供」と読み替えてみましょう。

②③④ 動物⇒「子供」、「飼い主」⇒「大人」

犬⇒「子供」、飼い主⇒「大人」

ペット育ても子育ても同じみたいだ。

「後書き」のなかに素晴らしい言葉を見つけた。皆さんも探して見てください。

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ありましたか。

「高貴高齢者」です。今後密かにこの字を使うことにしよう。

・早春の水の動くやほとけどぜう

 

 

 

 

俳句考(6)

引き算の美学 黛まどか 毎日新聞社より

・季語の力

季語には長年培われた潜在的な意味が潜んでいる。(季題、本意という)俳句ではそれを最大限活用します。季語はそれだけで情趣を含んでいるから、作者がそれに付け加えて思いや感動を加える必要はないということになります。歳時記の勉強がいかに大事か分かる。

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さらに重要な記述があった。俳句は当季を詠むこと。つまり、今だったら早春、晩冬だからその季節を詠む。

自分は夏が得意だからといって、今の時期季節はずれの夏の句を詠んで発表するのは場違いでよくないということです。このことは、ユーキャン俳句講座でも指摘されています。

これは、発句の習慣の名残と思われます。俳諧の最初の句である発句では一座へのご挨拶として当季を読み込むことが義務付けられていたからです。このことは、私は全く知らなくて講座テキストを読むまでは、当季など無視して年中得意な季節の句ばかり作っていた。

日本人は手紙でも、路上の挨拶でも必ず季節の挨拶から入る。なしのときはわざわざ前文ごめん下さい、と断りを入れるくらいです。これは発句の習慣からきている。

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・切れ、と余白

前のブログで説明したが、発句には完結性が必要です。そこで用いられるのが切れ。切れを明らかにするために切れ字を使います。切れ字は言い切る形をとる語。切れによる間によって、眼前の景に加えて現実には見えない世界を呼び出すことが出来るのです。

 

日本の芸術の真髄は余白美によって成り立っているといえます。華道では、余白の方が主役。ある日本料理のシェフの言葉、「味のアピールを半分でとめる。あとは食べる人が探ってください。・・」能もしかり。

 

俳句・・17文字に絞り込むために切り捨てられた風景、言葉の数々など、文字としては表に出ないが、句の裏側(余白)に隠され、確かに存在していることを伝え感じ取るのが俳句である。

正に、冗長な西洋詩と対極をなすものではないか。

・赤蜻蛉あの少年の日のことを

 

春一番(俳句考5)

今日は春一番の陽気で、見る見るうちに強風になってきた。

そこで春一番にちなんで、俳句講座テキストを読んで、これを会得できれば免許皆伝への一番大事な一歩と私が思ったことを書くことにします。

ユーキャン俳句講座「俳句読本」p18~

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「取り合わせ」と「一物仕立て」については前のブログ記事に書きました。取り合わせは素材の選び方組み合わせ方言葉の選び方に苦労し難しそうですが、その分だけ成功したときは大変魅力的な句になります。

 

一方「一物仕立て」の句は、一見作りやすいですが安易にやると大抵勢いのない平凡な句か、事実の報告、感動の押し付けになりやすい。

例えば、言葉の選び方の雑な一物仕立ての句

*菊白く咲かせみんなに自慢せり

 

慎重すぎて言葉がくどくなり、事実の報告、感動の押し付けになった句

*菊眺め時を忘れて震えけり

 

これに対して芭蕉の名句

*しら菊の目に立てゝ見る塵もなし

「目に立てゝ見る」=目にとまるような

(白状するとrecocaはこの句の良さが理解できてないので免許皆伝には程遠い。)

 

説明過剰句はだめ

「言い尽くしたとして、それが何になるのか」これは弟子の質問に対する芭蕉の答え。芭蕉は「言い尽くされた」という基準では作品を評価していないのです。つまり、「どれほど見たもの聞いたものへの感動を詠んでもそのことの説明に終わっている句は魅力がない。作者の一人合点に終わって今うことを戒めているわけです。

 

俳句は読者に読まれて、感動が共有されて初めて意味が生まれる。「私は感動しました」と説明されればされるほど、読者は鑑賞する手立ても気力も失ってしまうことを心にとめておいてください。」

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だそうです。じつはこの辺の頃合いが俳句の一番難しい点で、指導者について添削を受けないと会得できないのではと感じています。

習い事にはなんでもかならずこういった、ここ一番という肝があると思います。ここを突破すればあとはすいすい、というような。

いきずまったら(つまりスランプを感じたら)、肝に来たなとにんまりして耐えること。人のことだと簡単に言えるが、偽師匠には無理かも。すぐに放り出しそうだ。

いまこれを書きながら、感動の押し付けの句ができました。

・梅の香に一句閃く至福かな

演習問題「感動の押し付けと言われないように添削してください。」

ヒント、至福かな、と一人悦に入っているところが問題。

俳句考(4)

・俳句講座第一回目の課題3句投函しました。上5に「や」のついた句。それ以外の形の句は当分作らないようにとのきついお達しです。基本に忠実であるべしということでしょう。

雑誌や新聞には上5にやのつく基本形の句はほとんど見ないんですけどね。

 

よく見ると句の評価蘭に優良可不可の文字がある。ここに丸がついて帰ってくるようだ。不可だったらどうしよう。十手返上ですね。


・俳句の歴史(ユーキャン俳句講座第二講より)
講座第二講は俳句の歴史
系統樹でいうと俳句の大樹は万葉などの和歌にあります。和歌は(5・7・5・7・7)を一人で作るのですが、これを複数の人で順番に作っていく連歌という形式が生まれました。

 

具体的には次のようなやり方です。まず①のひとが最初の5・7・5を作る。②の人がそれに7・7を付ける。③の人はつづけて5・7・5を付ける。以下これを延々とやるわけです。なんと百個も。別に百人いるというわけではなく、少人数で順繰りにやるのが普通です。
和歌⇒5・7・5・7・7。
連歌⇒5・7・5/7・7/5・7・5/7・7・・・・・・・・・


連歌鎌倉時代後期に盛んになり、室町時代に全盛期を迎えました。連歌の内容は万葉の和歌が元ですから、とても優美で優雅な言葉使いや歌の内容になっています。


さて、江戸時代になって連歌と全く同じ形式の「俳諧」という文芸が起こってきました。何が違うかというと内容が庶民的なものになってきた。言葉もお公家さんの雅なものから江戸庶民の日常語になり、滑稽を含んだ内容になってきました。この俳諧が実は俳句のルーツなので俳諧を少し詳しく見ていきます。
俳諧
①の句 5・7・5 発句(ほっく)という。
②の句 7・7   脇句
③の句 5・7・5 第3句
④の句 7・7   第4句
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最後の句 7・7  挙句(あげく)


普通俳諧では36句がワンセット。「挙句の果て」、というのはこれがルーツです。
さて、ここからが正念場。はじめの句を発句というのに対して、それ以降挙句の一つ前までの句を平句(ひらく)と呼びます。発句と平句には重大な違いがあります。

 

発句は一座に対してこれから始めますよというご挨拶の意味を含めて、季節の語を入れるというルールが確立された。発句のもう一つのルールは句を完結させるために切れ字を含むということです。

 

では平句の場合は。句の内容を分かりやすくするため切れ字を使ってはいけない。季語も普通なしです。つまり、発句は開始のご挨拶ですから少し気取って詩的な句とする。そのあとは、変化が分かりやすいように内容重視の平句(散文的)を順次つけて、その粋な付け方を楽しんだわけです。

 

ですから、芭蕉も一茶も蕪村もみな仲間を集めて発句も平句も作る俳諧をやっていました。彼らは平句の名手でもあったわけです。そして現在芭蕉、一茶、蕪村の句とかいって私たちが見ている句は、それらの俳諧から切り取った発句なのです。


さて、時は明治に移りいよいよ正岡子規が登場します。子規は大変な勉強家で、過去の俳諧を徹底的に研究しました。その結果次のような結論に到達した。


「詩的である発句は文芸であるが、そうでない平句は文芸でない。」
ということで俳諧から発句のみを残し平句を切り捨ててしまった。

そして、その俳諧から独立した発句を新しく俳句と命名したのです。なので、俳句には発句の伝統を引き継いで、季語と切れ字が必須の要素となっています。


ところで、平句の形式が独立して発展したのが川柳です。だから、川柳には季語も切れ字もありません。川柳とは人の名。平句を付ける名手で平句の選者として高名だった人です。その選に通った平句を川柳と呼んだのが「川柳」の始まりと言われています。


図にまとめると以下のようになります。(ユーキャン俳句講座)

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このように俳句は座の文芸(愛好家が一座に集まって和気あいあいと楽しむ)俳諧が元になっていますから、一座の者が即座に共感できる分かりやすくすっきりした内容でなければなりません。

 

そこが一般の詩と違うところ。そして物事を言いきらないで余情を残して読者に委ねるのが良い俳句ということになります。

・ヴァイオリン降り積む雪の無伴奏

俳句考(3)

取り合わせの「付きすぎ」、「離れすぎ」について。

「一億人の季語入門」長谷川櫂 角川学芸ブックす

に目からうろこの説明があったので紹介します。

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降る雪や/明治は遠くなりにけり。 中村草田男

A/B、AとBの取り合わせの句。降りしきる雪と明治は遠くなってしまったという作者の感慨を取り合わせています。このような場合、二つの素材の距離を十分とってください。似たもの同士では取り合わせになりません。これを付きすぎといいます。

例えば、春愁や明治は遠くなりにけり。春愁も明治は遠くなりにけりもどちらも感慨ですから距離が近すぎ=付きすぎです。かといって、「げじげじや明治は遠くなりにけり」では「離れすぎ」です。素材が離れすぎると間が拡散してしまう。

もうひとつは、ふたつの素材のどちらかがどちらかの理屈や説明や場面設定にならないこと。

たとえば「建国日明治は遠くなりにけり」ここでは建国日が明治は遠くなりにけりの場面設定に使われている。

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省略について。

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俳句はとにかく17文字しかないから、エッセンスだけ残してあとは全て省略する。なにが省略できるかを検討することが推敲の大事な点と思われます。

俳句雑誌に省略特集がのっており、主語。動詞、場所、感情、時間、理屈を句の中で省略できないか検討しなさいという趣旨のないようであった。これらを省いて残ったものは⇒名詞と形容詞。

・凧舞うや無窮の空を独り占め

・木枯らしや梢の先の大宇宙

志月さんの句を借りて

・白無垢の雪愛しさに黙しけり

ひとひらの雪愛しさに黙しけり

追記

リリシズムの句ですが、

降りしきる雪ぞ×××のリリシズム

×××のところになにか画家の名前とか適当なのがあれば使えるのではないかと思います。

 

今日は俳句の中休み

●月2日で年一千万円の天下り

出すほうも出すほうだけど、貰う方もね、さらっと気がとがめないで受け取るというところが高級官僚の面目躍如です。

こういう形式的天下りは法律で禁止したはずだと思ったのだが。

文科省は解体してもいいのではないだろうか。研究も教育も国の指図なしにやらしたほうがノーベル賞が増える。

他の省庁は今必至になって証拠隠滅に忙しいでしょうね。

●廃物利用の花器もどき

枯れ木の溝に草を埋め込む。

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●またまた蜜柑

これで全部収穫終り。食べてみたらけっこういける。あまりすっぱくありません。マーマレードやジャムにすればいいけど量がね。これからもらってくれるところを探さなければならない。

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俳句考(2)

俳句と音楽

大分前に読んだ本ですが、とても感銘を受けた部分があります。5・7・5のリズムはあたかも音楽のリズムを刻むのに似ているのはすぐに気がつきますが、音色についても音楽に相似形であるとの指摘で、これを読んでいっぺんに俳句に興味をもつに至りました。

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「一億人の俳句入門」長谷川櫂 講談社

・言葉の音色

俳句の奏でる音楽でリズムの次に大事なのは、母音と子音の織り成す音色。

「行く春を近江の人と惜しみける 芭蕉

この句を母音と子音に分解して分かることは、oとuの母音が多いこと。この繰り返しに現れるふたつの母音がここでは湖の波のような調べを奏でる。

「番傘の軽さ明るさ薔薇の雨 中村汀女

「かるさ・あ・かるさ」という音が軽妙なリズムを刻んでいるが、そればかりではない。k,s,bというどれも乾いた子音、弾むようなn,mの子音、軽快なrの子音、さらにはaの母音が波のように現れるのが分かるであろう。

子音のk,s,bは7回、n,mは4回、rは3回、a母音は11回。これらの子音と母音が織り合わさって、番傘を叩くような大粒の雨のようなからっとした明るい曲を奏でている。

音色の音楽はなぜ生まれるのだろうか。日本語、とりわけ大和言葉はその意味にふさわしい音色を持っている。「はる」と言う音色は春のように柔らかだし、「ばら」と言う音色は薔薇のように豪華。・・

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日常的には漢語を使う場合でも、俳句では大和言葉に言い換えるべし、というのは添削でよく目にするが、上の文で意味がよく分かった思いがした。

このことを知ったのは1年前だが、最初から音色を考えて作っているわけではない。プロの人もそうだと思う。結果的に何となく内容とリズム、音色が合致するということで、これは何年も何回も無数に句を作り続けないと実現しない奥義のように思う。

・節分や鬼の居ぬ間の豆ひろひ

(リズムも音色も内容も、いまいち・・かな?)

追記

この音色の記事を読んで、プロの人の言葉使いと自分のような素人の言葉使いには明らかな相違があるに違いないと思った。

俳句始めて1年も経たないころだったが自分の句のストックは2百句以上あったので、図書館でプロの俳人の句集を借りてきて比べてみた。見た目には巧拙の明らかな違いがあるのは一目瞭然なので、それが何に由来するか知りたかった。

仮設として「長谷川説」にのっとって、音楽的にまずい音色の言葉を羅列しているのが素人の句であるとすると、母音、子音の頻度分布を調べてみれば、名句と駄句で違いが現れるのではないかと思って、1ヶ月やってみたがほとんど違いがなかった。ということは、普通の日本語の句であれば、統計的には差がないということが分かった。しかし、一句一句個別に見るとその違いは歴然とある。

俳句をそんな風に分解する人みたことない、と女房に異星人でも見るように奇異の目で眺め続けられた一月だった。