オカリナで「私の城下町」

ユーチューブにアップしました。ごいさんからのご希望曲。

1971年のヒット曲とのことで、70年前後は今でも私たちの心に残っている曲がいろいろ世に出た年のようです。小柳ルミ子のデビユー曲。この歌の城下町とはどこでしょうか?まずRECOCAのオカリナで。

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つぎに元祖小柳ルミ子の歌

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・秋澄むや城下の町へフルムーン

・黄落やほろほろ歩む城下町

               RECOCA

*オカリナの音色を人が好むメカニズム

面白い学説を発見した。

オカリナの音色は「子供のつぶやき」に似て人は好ましく受け取るのだそうだ。

人はなぜ拍手をするのか 小林朋道 新潮選書

以下引用する。

「ヒトという種には、特定のパターンの音刺激を入力するとそれに対応した特定の情報処理を行う脳内神経回路が遺伝的に備わっている。そして、このような生得的認知回路は、ドラマの効果音とかクラシックの楽曲などでよく利用されている。たとえばストーリーの中で恐怖がピークに達する場面では悲鳴のパターンに似た音が使われるし、打ちひしがれた場面では、よわ弱しく下がり調子の音が使われる。

私は、オルゴールやオカリナが奏でる音が好きであるが、それには私を含めた人類に共通した脳内認知神経回路が大いに関係していると考えている。オルゴールもオカリナも互いによく似たある独特の特性を持っている。それは、子供がつぶやく時に発せられる音の特性である。--あまり力が入っておらず、音は張りつめていない。どちらかといえばリズムはゆっくりとしており、ぽつんとした出だしと平和な音のつながり等々がある。子供のつぶやきは、それを聞くものに、対象の素直さ、誠実さ、少々の頼りなさを感じさせ、心をリラックスさせ安心感をもたらす。ゆっくりと進行するオルゴールやオカリナの曲はどうもそういった脳内認知神経回路を作動させているように思うのである。」

オカリナやオルゴールと同類の楽器、たとえばリコーダーについても同じことが言えるとRECOCAは思料する。だから、オカリナの演奏に素早い運指のいわゆる名人芸は不要である。ひたすら「いい音」を追求すれば感動する演奏になる。そこのところがフルートなどモダン楽器と大いに違うところであろう。

オカリナで「見上げてごらん夜の星」

暑さが和らいだ(東久留米でのことですが)と思ったら連続雨天と台風で、夜空の星はしばらく拝めそうにないので、RECOCAのオカリナと画像で提供します。

この曲はなんと1960年だそうです。60年近くの年輪を経ているのに、少しも古臭さを感じません。いまも下住みの環境の人々にとって、希望の歌になっているのではないでしょうか。

今朝の句

・天上に溢る楽の音星月夜

・閉院を告げし白衣の背に晩夏

           RECOCA

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唱歌童謡

9月に入り、東久留米は今秋やっと30度前後の人間らしい活動のできる日和になった。さて、ではブログなど放り出してウオーキング、サイクリングに外出しようと思ったら昨日から久方ぶりのぎっくり腰になった。昨日は構わず歩いたり自転車をこいで録音に行ったらあまり良くないようだ。

さて、これを見てください。何だと思いますか。

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これは、小・中教科書から消えた唱歌、童謡です。ただし、これは16年前の2002年現在なので、今はこの中からもっと消滅しているのではと危惧します。青少中年の方は、そんなもの消えるのがなぜ不満?と思われるかもしれないが、困るのです。老年になってから、往年の昔を回想するよすがが消えてしまうことに繋がるからです。ボランティアで老人施設へ行ってみるとよく分かる。昔を回想することは、精神の安定剤、音楽療法の基礎でもあります。オカリナと童謡唱歌を歌った午後はとても穏やかな雰囲気になるということを随所で聞いています。では、童謡唱歌が消えた音楽教育を受けている現在の生徒、学生が同じ立場の老人になったときどんな歌をよすがに往年を回想するのでしょうか。心配なのはそんな歌があるのかということです。以下の本にその分析が載っています。

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例えば、目につくのはジブリのアニメソング。消えた童謡唱歌の重要な後釜にみえる。なかでももののけ姫の優遇ぶりがめにつく。こういうものが未来の老人ホームでは、みんなが涙して歌う歌になるのだろうか。アニメの好きな人は思い入れがあるかもしれないがそうでない人も大勢いるのではないでしょうか。

さて、前掲、消えた唱歌童謡の表に戻ります。

一発目にリストアップされている、この道と待ちぼうけなのでですがいずれも山田耕筰の代表曲です。山田耕筰といえば日本における西洋音楽の開拓者で非常に重要な存在で、その歌曲は非常に芸術性の高い内容です。ところがこの純粋な芸術性ゆえに、教科書からの削除の危機に見舞われるという皮肉なことになったと上記の本は述べています。どういうことかというと、削除対象になると国民からの残留陳情がきて、その熱意の多少によって結果が決ますが、芸術性が高い=地方の土着性が少ないという理由で残留陳情の熱意が弱いのだとか。こんなところにもポピュリズムの悪しき弊害がみてとれます。それから唖然としたのが、桃太郎などの昔話。削除の理由は内容が軍国調だということだそうです。歌詞4番「そりゃ進めそりゃ進め、一度に攻めて攻め破り、つぶしてしまえ鬼ヶ島」鬼ヶ島=韓国、中国などかつて侵略した場所を連想するからだそうです。韓国のある文化人はこんな論文を書いているとのことです。「桃太郎の団子と剣は、すなわち日本人の姦計と武力主義を象徴するものであり、小人が九尺を超す鬼を攻撃するということは、小さな島国(日本)とはいえ大陸を蔑視し、進出を企画する侵略主義の根性を暗示するものである。」こういう阿保らしい反日論調に恐れをなし忖度している日本の情けない状況がここにもあります。

タブー、差別語?のために削除

赤い靴:異人さんにつれられて=外国人にさらわれる

テルテル坊主:雨が降れば首を切る→残酷という意見が現場教師から。バカな教師がいるものだ。文部省、教科書会社はもっと筋を通して毅然と。

赤とんぼ:姐やは15で嫁に行く→現在の婚姻年齢に合わない、が理由とは教養のなさにあきれるしかない。「姐や」は差別用語

言葉刈り→「ぼく」と男子を主人公にした歌が多いのは男女差別という抗議書が来るそうだ。アホか。いわれなき圧力には毅然と対処してもらいたい。

追伸

上記の消えた唱歌童謡の中に、最近まで私の知らない曲が一つありました。それは「野菊」。それをたまたま耳にする機会があり非常に感動した記憶があります。多分、この20曲の中でRECOCA一番の推奨曲。これを知らないということは、戦後まもなく教育現場から外されたということ。作曲は昭和17年だから戦争真っ只中。老人施設の入居者も知らないだろうと思って、いい歌だから覚えましょう、と紹介したら古手の人は大体ご存じだった。ということは戦時中と戦後しばらくは教科書に載っていたらしいことが分かった。削除するセンスが分かりません、文部省殿。まー、聞いてみてください。

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大空と大地の中で

今朝はましだが、このところ37度の連続。読者の皆さんのところも大同小異では?そこで、北海道の空と大地へ赴いて多少なりともスカッとしましょう。

アップ曲は「大空と大地の中で」松山千春作詞作曲。北海道をイメージする松山千春の代名詞的な曲です。北海道勢が甲子園に出たとき応援歌としてたびたび使用されている。テーマのメロディがしつこく何度も出てきますが、無心に聞いていると催眠状態になって北の大地が心に浮かんでくると思います。

歌詞大要

「果てしない大空と広い大地のその中で、いつの日か幸せを自分の腕でつかむよう~生きることつらいとか苦しいだとかいう前に野に育つ花ならば力の限り生きてやれ」

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敬意を表して松山千春の歌唱も聞いてください。

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広場のこども会

今日の句

・儚さを知らずひたすら蝉時雨

・八十(やそ)生きてこれでいいのだ大夏

・日本はこれでいいのか秋の風

      RECOCA

今日の東久留米市36度、夕方になっても30度以上。そんな暑さをものともせず、近くの公園広場で恒例、年一度のこども会が開催された。主催は公園ボランティア(うちの奥さんが言い出しっぺなので、会長さんとよばれている。)出し物は、めだかすくい、風船ヨーヨーすくい、スイカ割り、花火)18年連続でつづいているというからなかなか大したもの。この広場には思い入れがあって、18年前かみさんが3000人の署名を集めて市議会に広場確保の請願を通したという経緯がある。そういう経緯があるので、年一回のこども会には市議会議員が挨拶にやってくる。市長さんが来られたこともあった。

何の変哲もない広場だが、立派な花壇があり、市が花を提供して公園ボランティアが管理をしている。

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「街の灯り」ユーチューブ

今朝は明け方迷い込んだ蚊に起こされた。何もすることがないので俳句。

午前5時~6時の作品。テーマは夕焼け。

・冷めやらぬビルの熱気や夕焼ける

・あちこちの窓に灯りや夕焼ける

・マネキンのうんざり顔や夕焼ける

・なんとなく夜業のきざし夕焼ける

・夕焼けを歩む路地裏祭り笛

・夕焼けを歩く戦のなき地球

アップ曲→街の灯り

この曲は、歌詞もメロディも大のお気に入りなので、RECOCA満を持してのアップである。オリジナルは堺正章の歌。じつはこの方が歌手だったとは最近まで知らなかった。

阿久悠の歌詞がじつにいい。

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歌詞を思い浮かべながらオカリナを演奏します。

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ついでに敬意を表して歌の方も。

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ボランティア

ボランティアは無償に限るか。

基本的には無償であるべきだと思う。例えば、災害救助、あるいは雪かきなどの弱者支援などである。しかし、目的、相手先によっては有償であっても差し支えないと思う。例えば、東京オリンピックなんかどうだろう。

オリンピックは超巨大なスポンサー付きの商業イベントだし、ましてオリンピック委員会が一般国民より弱者なんてこともあり得ない。こういう金持ち強者に国民が無償ボランティアで奉仕すべしという理屈はおかしいと思う。

オリンピックでボランティアすれば、非常な本人の利益、やりがいになるから無償でもよいと言っているようだが、これはある新聞投書にあるように「やりがいをことさら意識させることで低賃金劣悪労働を強いる一種のやりがい搾取」につながるのではないかと思う。たとえば交通費、宿泊費等の実費は有償であってもおかしくないとRECOCAは考える。

さて、ではRECOCAなどが行っている、各種施設訪問はどうか。基本的に無償である。よく勘違いしがちなのは、「施設入居者はお気の毒だから慰問のため」無償奉仕をするんだと思ってしまうこと。そうではなくて、いまや施設入居などは普通のことで入居者がお気の毒でもなんでもない、ということを基本に据えないとボタンの掛け違いになってしまうだろう。それではここでボランティアを行うことの醍醐味、それこそ大いなるやりがいに尽きる。それが同時に施設側の楽しみ喜びになるのなら言うことなしである。だから我々にとって、有償、無償などどうでもよいこと。実際、施設側の対応、接遇も、必ず利用者さんと同じ昼食の提供から、お茶とお菓子、お茶のみ、水のみ、なにもなしなど千差万別である。あっ、お車代の出るところもあった。それでもボランティアですかお偉いですねと言われることがあり、返答に窮することがある。