ユーキャン俳句講座より。
最終講座にきて極めて重要な記載に出くわした。
有名なこの句について考察します。
この2句を鑑賞し分けられれば、初級卒業です。
「端的に言えば、①には「切れ」がない。「に」は切れ字ではありません。したがって、この句の中心はもらい水にあります。ということは、この文章はこのままでは中途半端で、「もらい水」がどうしたという部分がないと完結しません。(例えば、もらい水をした、とか)換言すれば、中途半端な理屈っぽさを含んだ句といえます。
それにたいして②の句は、「や」によって上5とそれ以下が切れている。これによって、もらい水のイメージが朝顔のイメージとぶつかりあって、一句全体として、理屈ではない美しい朝顔のイメージをもたらしてくれます。
すなわち、切れているとはこういうことです。意味が断ち切れるのではなく、「や」の前後を一つの世界に高めたうえで、もう一度朝顔に対する作者の感動に立ち戻って、印象を深めるわけです。」
これを、芭蕉の弟子土芳は「行きて帰る心」と表現しました。つまり、
・行き
→→→→→→→→→→
・帰り
←←←←←←←←←←←←←
この行きと帰りに隔たりがあるほど面白い句ということになります。
・やさしくもそよ風吹くや百合の園 recoca
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ゆり園に行かなくても、うちの農園にきれいな百合があった。
紫陽花もあった。
●花クイズ 農園の花から
①
②