なぜコロナ感染者を責める

日本では、新型コロナ(武漢コロナ)の感染者を責める人がなぜ多いのか、彼らの罪ではなく犠牲者でもあるのに。これに対する答えの試案として、歴史学者輿那覇(よなは)潤氏のコラム(朝日新聞10月9日)が新鮮だった。

「なぜ感染者を責めてしまうのか。一般的なイメージには反しますが、現在の日本が世界でもまれに見る個人主義の国であることが一因です。」という文章で始まる。これを見ると誰しもあれ?と思うのではないか。日本は稀に見る集団主義の国、の書き間違い?いえいえ。個人主義には正負の二通りがあって、日本では負の個人主義が非常に強いというのが同氏の考えです。その反対、正の個人主義とは。こちらのほうが普通一般にイメージする個人主義で、同調圧力を恐れず自分の意見を堂々と唱え行動するという意味での個人主義です。こちらの方は、確かにほとんどの日本人の弱点とするところです。ところが、これと裏腹にもう一つの個人主義があって、それは「おれはお前とは別の存在だから触るな、不快な思いをさせるな。」という強い他との差別意識です。これを「負の個人主義」と名付けます。日本人はこれが極めて強いというのです。「自分と相手を包む我々の意識がない。自己が指す範囲を個体ごとに分割し、混じるなと線を引く。」そして自分を不快な気持ちにさせただけで自分の領域侵犯でありアウトとみなします。これをコロナに当てはめると、ある近くの他人がコロナ感染⇒自分を恐怖に陥れ、不快にさせた、けしからんとなって「その感染者」を自己の領域への侵犯者とみなして強く責めるわけです。

こういう心の垣根は、明治以降西洋個人主義を独特の形、つまり正の個人主義が育たない形で取り入れることで醸成させてきたといえます。

「今の日本社会は相互に迷惑を掛けないことだけが絶対の規範になります。コロナ感染者に罪はなくてもうつされるのは迷惑だと排除される。個人主義の負の部分だけが残ってしまいました。」

そういえば謝罪会見では、世間様に御迷惑をかけて申し訳ありませんでしたという決まり文句がしょっちゅう見られますね。

・迷惑を減らすのではなく、迷惑をかけあえる関係を築くことにより、正の個人主義が見えてくる。

・マイナス込みで他者を受け入れ、心の垣根を下げていくことが大事。

本当にその通りだと思いました。

ところで現在の日本人が、どうしようもなく度し難い負の個人主義者とまでは言えないと思っています。たとえば、財布など拾ったときどうしますか。あるいは、道に迷って困っている人に遭遇した時、道端で倒れている人を見つけたときなど・・。そういう人のために自分の迷惑を顧みず一肌脱げる心がほとんどの日本人にはまだ残っています。だからその気になれば、コロナ感染者責めのような負の個人主義を徐々にでも克服していく望みは残されていると私は思いますよ。ただし何年、何十年先に実現??