徒然草③

●中国から歓迎すべからざるものの到来。

ハッカーによるサイバー攻撃コロナウイルス肺炎、黄砂、PM2.5

逆にもし日本からこれだけのものが隣国にまき散らされているとしたらどうだろう。日本は声高に非難の渦にさらされ、国交、貿易制限場合によっては日本人入国禁止の憂き目にあうかもしれない。一方中国は・・。この違いはなぜ、何なんだろう。いじめっ子の乱暴に静かに耐える可哀そうな子。最近、学校や職場にたくさんいますね。

徒然草

月は満月、花は満開をのみ見るものだろうか、という有名な段があります。高校の時知ってすっかり感心した記憶があります。今回全体を読み直してみて、直接ではないですが、関連する段があることに気がつきました。それらをひっくるめて兼好さんの言いたいことを忖度してみると、余白の美にもっと気付くべきだといってるように思いました。満月に至る過程、欠けていく過程、花でいえば散っていく過程にこそ得も言われぬ美(もののあはれ)があるといっている。お祭りでもそうです。祭りの喧騒が終わった後の静寂、そこまで味わうのが教養人の祭りの楽しみ方だというのです。音楽、映画、TV番組の終了直後の雰囲気を連想すれば分かるのではないでしょうか。

余白の美は華道、水墨画など日本伝統芸術にはすべて共通して存在します。余白の文学といわれる俳句もそうです。いかに上手に余白を残すかが問われる芸術で、饒舌な西洋芸術にはない発想です。俳句は今外国語でも「haiku」として広まっていますが、例えば芭蕉の句を英語に翻訳しても余白の感覚まで英語圏の人は受け取れるのか疑問に感じます。そう考えると、俳句と「haiku」は似て非なるものと思わざるを得ません。

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徒然草・現代語訳(by上野友愛 朝日新聞出版)

余韻の味わい

*賀茂の祭りが終われば祭りで飾った葵の葉はもういらない、といってある人がさっさと片付けてしまった。高貴な人がさも当然のように言うのでそういうものかとも思ったが、枯れた葵が祭りの後も飾られている様子は昔の和歌にもちゃんと詠まれていることだ。葵の葉が自然と枯れていくのも名残り惜しいのに、どうして無残にもとって捨てるようなことができるのか。祭りの余韻を感じなくなってしまうのはいかがなものかと思う。

*教養のない人が賀茂の祭りを見物する様子と言ったら驚くばかりだ。行列だけを見ようとし、その前後の雰囲気を味わおうとしない。行列が来ないときは飲んだり食べたり遊んだり、いざ行列が来ると大騒ぎする。祭りが終わると桟敷席はあっという間に解体されてしまう。見る見るうちに寂しくなっていくのを眺めていると、これこそ世の無常を思い知らされて感慨深い。にぎやかな行列だけでなく、人がいなくなった大通りを見てこそ、祭りを見たといえるのである。

*桜の花は満開の時、月は満月の時にのみ、見るべきものだろうか。そんなことはない。何事も始めと終わりが面白いのだ。月や花は目で見るだけのものではない。春だからと言ってまざわざ外出しなくても花を思い、秋の夜に部屋にいながら月を思うことこそ情緒を感じる。教養ある人は執着せず、面白がることもあっさりしている。一方、教養がない人に限ってしつこく面白がる。花見の時は大宴会、ついには桜の枝を折ってしまう。湧き水には手足を突っ込み、雪を見ればわざと足跡をつけたくなる。すべてにつけて距離を置いて楽しむことができないのである。