6月にはいろいろありまして

超高齢となった昨今ほとんど個人的な行事がなくなっているが、それでも6月はいくつかある。

◎まず家族のこと。例えば不肖RECOCAの馬齢を重ねた記念日(つまり誕生日)、娘夫婦の結婚記念日、父の日。これらをまとめて祝うべく近所のイタリアレストラン馬車道で夕食をとった。ピザ、パスタ(スパゲッテイ)、メイン料理、デザート、ドリンクバー占めて一人2200円で済む。貧乏家族に相応しい楽しい会だった。ただし、店の名誉のために付記しておくが、ピザ以外は十分満足できた。と言ってピザが特別ダメという意味ではない。生地の焦げが少し気になる程度。ドリンクバーのサーバーの機械はなかなかフレンドリーなのも気に入った。それと貧乏家族の名誉のためにも付記しておくが、当初の計画では馬車道のような庶民的な場所でなく、もっと高級な店を考えていたようだ。(ようだ、というのは自分が計画担当ではないので)娘夫婦が行きたいと狙っていた店は石神井公園駅にあるイタリア料理店。ここのシェフはピザの世界コンクール優勝の腕を持つ。それに食材の品質にもこだわりがある。だからなかなか予約が取れない。料金も庶民的水準の3倍は覚悟しておくべきだそうだ。

ところで馬齢RECOCAは誕生日とともに83歳になる。時の経過のスピード感はまさに台風並みで、これではヤソの感慨にゆっくり浸る間もなく卒寿の尻尾を掴む勢いだ。情けないことに世の中を見回せば見回すほど、八十半ばといえば逝去適齢期であることがはっきりわかる。つまり長蛇の行列に並んで自分の番を待っている状態なのだ。行列の先は言うまでもなく「死」であるが、その実態、実感は個々人の心次第でどうにでもなる、と思われたことはありませんか。つまり、それが死刑執行を待つ陰鬱な行列なのか、あるいは高級レストランへの入場を待つワクワクした行列なのかは心次第なのだということ。後者でありたいのはだれしも当然だろう。だが、それにはそれなりの勉強という準備なしには絶対に不可能だということも事実だ。それをRECOCAは最も重要な「終活」と定義している。後者の心境にたどりついた人が人生の真の成功者と言えるのではないか。RECOCAはまだまだだだからもう少しこの世の時間が欲しいのでどうかよろしくお願いします、神様仏様。

・六月の風に吹かれて誕生日

◎郷里出身者の会

東京多摩の界隈には愛知知多半島の片田舎から出てきた郷里の同級生が10人足らずであるが近在に住んでいる。例年6月には旧交を温める会が中央線の国分寺で開かれる。なぜ国分寺かというと、国分寺の画廊で友人の所属サークルの水彩画展が毎年あるからである。その絵を見に行ったついでにみんな集まって昼食を共にする会を催すのである。全員八十の声を聞いているが欠けたのは最近の一人だけ。子供の頃知多の浜辺で海風に吹かれて自由気ままに遊んだことが長持ちのする心身を育んだのかもしれない。しかしみんな貧乏だった。当時(80年前)の田舎の小学校を思い返すと、校舎の見かけはちょうど映画二十四の瞳に出てくるあれにそっくりというかもっとおんぼろの感じだったかな。一学年二クラスだが一クラス5,6十人詰め込まれて大変だった記憶がある。ユニセフ脱脂粉乳の給食があったころである。自分の牛乳嫌いはあれのせいかもしれない。一学年百人足らず。その中から一割近くが今も同じ多摩の隣町に身を寄せ合っていることを思うと強い絆を思わずにはいられない。この中には結構優秀な人がいる。例えば、携帯電話のプロトタイプを作って現在の礎に貢献したエンジニアとか、人のゲノム解析の日本のリーダーとか・・。少し学年の上下にはひょっとしてノーベル賞?という下馬評の学者も居るんですよ。この人たちを含め我々の子供の頃、特に小中時期には勉強したという記憶が全くない。学校の成績なんかみんな団栗の背比べだった。今の時代とはえらい違いだが、どちらがいいんでしょうかね。

・六月の画廊に青き水彩画