自殺について

米国の霊能者メアリー・ブラウンの本の記述でもう一つ特記しておきたい箇所がある。それは自殺について。日本は文明国家で自殺大国だそうだからぜひ言及しておきたい。

前回の記事で、フォークの名曲「誰もいない海」は自殺防止キャンペーンの歌だと茶化したが、実はシリアスな問題なのである。以下は、メアリー・ブラウンの書物「死後の世界からの声」の抜粋である。ただし、内容が百%真かどうかは分からない。霊能者としての霊へのコンタクト技術というフィルターがかかっているからである。しかし当たらずと雖も遠からずであることは間違いないと思っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新聞には、苦しみに終止符を打とうとして自殺を選んだ様々な人の話が溢れている。悲しいことにこの現象は大人の世界だけではなく、現在では恐ろしいほどの数のティーンエィジャーまでが自らの命を絶っている。だが、自殺は断じて認められない。それは魂に対する憤怒の行為なのだ。自殺者については、その人本来の死期が訪れるまでの間、死者の魂はこの世と霊界の間に挟まれて暮らすことになる。この状態―死とも生とも言えない状態―で存在するというのは実に恐ろしいことだ。結局は人生を終わらせたところで苦しみから逃れるわけではない。将来生まれ変わったとき、前世で自分を自殺へ追い込んだのと同じ問題がまた生じてくる。来世で繰り返さねばならないのなら、現世でその問題に立ち向かった方が賢明だ。

肉体的精神的苦痛は、様々な形で我々を試している。より高次の自我に向かって手を伸ばし、精神に目を向ける機会を与えているのだ。そして、過去生からもたらされるカルマを解き放ってくれる。(動物は解釈する能力を持ち合わせていないのでカルマを作り出さない。だから苦しむままに放っておくわけにはいかないのだ。)自殺しても、魂は相変わらず物質界に結びついているのだが、それを目にすることはできない。このリンボのような状況下で、魂は自分自身と他人へ引き起こした苦しみに気付く。それはまるで悪夢の中に生きているようなものだ。自然死は安らかに眠ったようだと表現される。だが自殺者の場合安らぎなどみじんもない。苦悩の眠り。世の中には臨死体験の素晴らしい本がある。だが、自殺で死にかけた人が楽しい臨死体験をしたという話は読んだことも聞いたこともない。

命を絶つことを許される場合はあるか。

より高次の真理を守るための命を絶つというのは勇気ある無我の行為、すなわち神の力で守られた行為だ。たとえば、敵に捕らえられたレジスタンスの戦士が何百人の生命にかかわる秘密を握っていたとする。この時彼が裏切りよりも自死を選んだとする。この場合、彼はより高次元の理想を守ったことになる。彼の勇気ある行動のおかげで自由が守られ多くの人が救われるのだ。この行為は罰せられるどころか尊ばれる。また、日本の神風特攻隊のような場合も同様だ。目標を確実にするために死を覚悟で操縦席から離れなかった。この状況もまた自殺とはみなされない。彼らの動機も、国防というより高次の理想によるものだからだ。(RECOCA注:国防が真に正しい理想かどうかは別の次元で検討されるべき問題。これまでの記述で分かるように、その時点での本人の動機が行為の判断基準になる。)人生で行き当たる問題を避けるための自殺は決して受け入れられない。

何を自殺と呼ぶか。

こんな場合はどうか。ある人が酒の飲み過ぎで死んでしまった。医者は彼に以前から警告していたし、傷んだ肝臓のもX写真も見せていた。しかし彼は死ぬことは分かっていながら禁酒節酒の努力をしなかった。これは自殺ではなく自滅行為である。両者には大きな違いがある。悪癖の原因は死にたいという気持ちではなく自制心の欠如からである。

では、安楽死はどうか。この問題に対する私の意見ははっきりしている自ら命を絶ったり、病に苦しんでいるからといって人の死を幇助するというのは認められない。だが、機械を使ってまで生かされるべきではない。生命維持装置を外すと生きていられない人は他界させてあげるべきだ。

 

余命があとわずかという状況になっても次の人生で役に立つように出来るだけの知識を身につけながら残された時間を過ごすべきだ。この世に生まれた瞬間から、肉体は死に向かって歩き始める。私たちが人生で行うことはすべて肉体が死に向かっている過程内の出来事だ。最後の息を引き取るその時まで私たちは人生から学び経験を積むことができる。人や心のなかの神を愛し仕えることができるのだ。

 

私たちはみな、現世でどう生きたか、どう死んだかということによって、来世を勝ち取ることになるのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

RECOCA注:今回と前回記した記事は、既存宗教が隔靴掻痒で明らかにしてこなかった内容である。それだけにこれを初めて知った時の驚きは大きかった。霊魂、死後生というスピリチュアリズムの神髄を受け入れられる人はまだ少数だと思う。死んだら灰にされてすべて終わりということならすっきりして簡単である。どちらが正しいか霊能者のような特殊な人でない限り分からない。

RECOCAはどうかと問われると、霊魂、死後生の存在を仮定した方が世の中合理的に説明がつく、という間接的な理由でスピリチュアリズムに傾いているとしか言えない。

いずれにしろ生きているうちはどっちが正しいかか分からないのだから、どちらに準拠して生きるかは一種の賭けである。

問題は死んでから。死=灰に賭けて敗れたときの無念さ反動は大きすぎるのではないだろうかという恐れが、霊魂説に準拠して生きる大きな理由といえるかもしれない。