続・「いちばんやさしい三大宗教の本」

お釈迦様の本名はガウタマ・シッダールタ釈尊)で、紀元前5世紀に現在のネパール領ルンビニで生まれた実在の人物というのが定説です。シッダールタのことをお釈迦様というのは釈迦族出身だからです。彼は裕福な王子として何不自由ない暮らし向きでしたが、ある時一般庶民の生活の困窮を目のあたりにして、なんとか人間の生・病・老・死という四大苦から救う法を見つけたいと思うようになります。なお、四苦八苦の四苦はここからきている言葉です。当時インドの宗教は生まれながらの身分の厳しいカースト制を敷くバラモン教ですが、これでは庶民は救われないとバラモン教に反発して修行に入り、ブッダガヤの菩提樹の下での瞑想により悟りを開きました。

その悟りの根幹は「縁起」の原理の発見です。縁起とはいわゆる因果関係のこと。「物事には必ず原因と結果がある。でたらめに起こるのではない。」⇒ひとりでに起きていると思われることも全て何らかの因縁(原因)がある、と考えるのです。これは、方程式があって、原因の数値次第で結果が決まるとするニュートン力学の考えそのものだと思いました。言い換えれば、物事の存在はすべて単独でなく相互依存的だということです。ブッダの縁起の原理を「苦」に当てはめて考えると次のようになります。人生は苦しみの連続。しかしそれは絶対的にあるのではなく、苦しみを引き起こす原因(因縁)が必ずある。その因縁を取り除くために「道」を究める。その結果苦しみから解放される。(=悟りが開ける)では苦しみの原因は何か。ブッダはこれを突き詰め、十二の因縁を生成の順番で示し十二縁起という形で表しました。ブッダの思想は非常に論理的で、悟りへの過程が凡人にも理解できる形で示されています。

縁起の思想は非常に重要なことを示唆しています。それは、物事は同じ状態にとどまることなく常に移り変わるということ。これを「無常」といいます。いいかえれば、物事は時々の現象としてあるだけで実態は何もないのだといえます。この状態を「空」(くう)と呼びます。この空の概念を「からっぽの無」と考えると禅問答みたいで理解不能に陥りますが、そうではなく世の事物は常に変動していて固定して動かないということはないという状態を指す言葉と考えれば腑に落ちるのではないでしょうか。

以上からブッダ原始仏教の根本思想を三つにまとめることができます。①物事はすべて諸行無常。(物事はすべて移り変わり留まるところがない)②諸法無我(我とは実体・本質といったもの。つまり、この世のあらゆるものには実体がなく縁によって互いの関係性の中でのみ成り立っている。)③涅槃寂静(苦や煩悩がなくなった境地)この三つを「三法印」と呼ぶそうです。言葉でまとめると、人生は苦しみであるが、諸行無常諸法無我を受け入れること(つまり悟ること)で涅槃寂静の境地に至ることができる、ということになります。そして、悟りに至る方法が座禅ということでしょうか。

さて、釈迦入滅後その教えはいろいろ追加改変が行われ、現在伝わっている仏教の形となりました。その最も大きな改変は死後生の追加です。これは人間は霊であるとするバラモン教ヒンズー教の前身)の影響だといわれています。典型的なものは輪廻転生です。人は死ぬと霊魂の状態になりその後いろんなものに生まれ変わる。生まれ変わる先を六道といって、その中に例の地獄が含まれます。そして六道から抜けるには解脱しなければならない、とされています。いわゆる救われるということですね。現在のいろんな宗派によって解脱の方法が違うということでしょうか。

さて、ここでRECOCAの独断と偏見ですが、「無常」について。

釈迦の教えは、この世のあらゆるものは同じ状態にとどまることなく常に移り変わるから、それらのものには実体はないのだ、ということです。私はアニメの動画を連想すれば分かりやすいと思いました。この世の変動は動画セルをパラパラめくることによって映画のように動いて見える目の錯覚のようなものではないでしょうか。そして、動画のセルは我々の目に触れないようになっている。ニュートンという科学雑誌で興味深い記事を見つけました。最新物理学の有力仮説に「この世の事物出来事はホログラフ的で実態がない。」というのがあるそうです。ホログラフ(ホログラフィー)的世界というのは、別次元に設計図があり、その三次元的(ホログラフ的)投影がこの世界だという説です。こんなおとぎ話が数式で導かれるというのですから凡人の理解を超えていますが、ホログラフの設計図をアニメ動画の一枚一枚のセルみたいなものと勝手に結び付けて理解しました。

さらに独断と偏見を続けますが、一つ前のブログ記事で書いたように、仏教の大きな特徴はキリスト教イスラム教に比べて教義の解釈の幅の寛容性が非常に大きいということです。これは大乗仏教についてですが、その経典は般若経華厳経無量寿経阿弥陀経観無量寿経法華経など様々なものが編纂され、中国では13もの宗派が生まれました。これらの経典はブッダが直接伝えたという形をとっていますが、実際にはブッダ入滅後数百年後の作なので、創作的要素が強いといわれているそうです。聖書にも創作的事項が全くないとは考えられませんが、異なる解釈の聖書が10も20も存在するということはなく聖書は聖書でひとつしかありません。イスラム教の聖典コーランについても同じです。なぜRECOCAが寛容性に拘るかというと、キリスト教徒、イスラム教はその寛容性の無さ、つまり他者に対する偏狭な態度ゆえに非平和的な過ちを過去に何度も繰り返しているからです。キリスト教の十字軍、異端、魔女に対するおよそ宗教者とは似て非なる残酷な行為。これらを平然と拭って現代の指導者としてえらそうな顔で説教台に立っている。仏教は現代においては葬式仏教と揶揄されていますが、異端排除やおおきな仏教戦争の歴史がないだけなんぼかましだと思います。

最後にRECOCA教を述べて終わります。

全ての宗教は「盲人象をなでる」を座右の銘として自戒すべきである。自分の唱える宗教なんかは、神の創作された世界の理解にはちっぽけな存在に過ぎないとおもうこと。自分と別の宗教は、いわば別の登山道を通って同じ真理の頂上へ向かっているのだという認識をもって存在意義を認め平和裏に尊重すべきこと。これ以外に宗教が地球上で生き残る道はありません。