昨日の続き

古代ユダヤ教も持って渡来した最も重要な人たちは秦氏(はたうじ)といわれる一族です。2万人の大集団で現在の赤穂にある坂越(さこし)というところにたどり着きました。その長は秦河勝(はたのかわかつ)というひとで、この人は非常に有能で聖徳太子側近NO.2の上り詰めた人です。秦氏一族は中東のアッシリア出身の部族です。アッシリアという国はイランイラクあたりにあった国で今はありませんが、東方キリスト教景教が栄えた国です。坂越に大避(おおさけ)神社という古い神社がありますが、そこが初めて古代のキリスト教会を立てた場所であることが研究で分かっています。

その後秦一族の多くは京都に移住し、そこで日本文化の要となるような影響を及ぼし続けました。まず彼らの得意技は機織です。この機をはたと読むのは秦氏に因むものです。京の西陣織の起源も秦一族です。絵師としても有名、また万葉集にも秦と名乗る作者が多く登場します。能の世阿弥も秦一族。雅楽の基礎を作ったのも秦氏です。ほかにも大蔵、外務、通産など国政にも力を発揮しています。

さて、京都における秦氏の宗教的活動ですが、京都でまず建てたのが広隆寺といわれています。現在は仏教寺院ですが最初はキリスト寺院だったようです。その片鱗は弥勒菩薩像にみられます。

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広隆寺弥勒菩薩

右手の二本の指で三角を作っていますが、この形は東方キリスト教である景教大主教画像と同じだそうです。この画像は敦煌の壁画で発見されました。

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景教大主教

広隆寺の近くに大酒神社と呼ばれる神社がありますが、これも秦氏が建てたものです。そしてその門柱には太秦明神(うずまさ)と書かれています。うずまさとは古代ヘブル語のアラム語でイエス・メシアという意味です。この辺りに住む秦一族が神社でウズマサーと唱えていたのが地名として今も残っているものと思われます。

また、太秦の「元糺」もとただすの森に蚕の社という神社があってこれも秦氏の建立ですが、ここには珍しい三柱鳥居という鳥居があります。これはキリスト教の三位一体信仰の象徴と解釈されています。さらにこの鳥居の傍に元糺の池というのがありますが、これは洗礼場だったのではないかといわれています。なぜなら、イスラエルヨルダン川の洗礼場と構造が酷似しているからです。三柱鳥居は奈良、東京、対馬にもあります。

最後に興味深いというか意外なことを。

京に平安京を作るにおいて中心的役割を果たしたのも秦一族でした。京都に平安京を作るために技術の粋を結集し、労力を提供しました。高度な治水技術によって鴨川や桂川の流れを大きくかえ、従来の氾濫後輩の地を住みやすい土地にしたのです。平安遷都のための巨額の資金も秦氏(秦島麻呂氏)が出しました。実は平安京の置かれた地域自体秦一族である賀茂氏、八坂氏、土師氏、栗田氏、茨田氏の所有地だったのです。京都御所の土地もそうでした。平安京という名前はエルサレムと同じ意味だそうです。イエル・サレムはヘブル語で平安の都という意味で、まさに平安京なのです。秦一族の故郷への憧憬の念が籠った名前に思われます。その後ほどなく祇園祭が始まりました。その最大の行事山鉾巡行は7月17日ですが、この日はノアの箱舟アララト山に漂着した日。その他祇園祭には聖書との付合が多く見受けられるのです。また、京都の隣に琵琶湖があります。琵琶湖はイスラエルの聖書に登場するガリラヤ湖に大きさ形がそっくりだそうです。そしてガリラヤ湖は古代にはキネレテ湖と呼ばれていました。キネレテとは琵琶の意味です。偶然の一致でしょうか。

さらに驚くべきこと。

秦氏はまた全国にある稲荷神社の創建に関わりました。驚くことに伊勢神宮の創建にも深くかかわっているのです。詳しくは省きますが、伊勢神宮の神も、稲荷の神も秦氏創建の蚕の社のアメノミナカヌシの神も皆同じ神、イスラエルの神ヤハウエだというのです。

以上のことから推察されるように、聖徳太子当時の京都は多くの渡来人が闊歩する国際都市だったのです。奈良もそうです。決して仏教一辺倒の地ではありませんでした。シルクロードの終点が京・奈良だったのです。