喜寿

明後日は喜寿の誕生日。

「喜ぶな冥土の旅の一里塚」

と吹聴しても、一応周りは目出度い振りをして、色々気を使ってお祝いの品を贈ってくれる。

・カード

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このカードはすごい。右上のボタンを押すと、ヒュー、ドカンドカンという音源つきで花火がピカピカ輝く仕掛けだ。最近、郵便局の売店にこの手のカードを売ってるのを見かけるようになった。音楽が流れるのは昔からあったが、動きを伴うのがいろいろ出回ってきた。

・小型キーボード

手軽に持ち運べる。オカリナの音取りに何かないかと呟いていたら用意してくれた。レッスンのときこの音程ですよ、と生徒に教えるとき重宝するだろう。ピアノのところへ移動する手間が省ける。

・チョコレートと亜麻仁油

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チョコレートは私の大好物。これは癖になるね。ほっとくと中毒になるから気をつけよう。甘いものを食べたら、抗酸化作用の強い亜麻仁油を食べなさい、というセットで贈ってくれるなんぞは至れり尽くせりだ。

グリーントマトジャム中間報告1

12時間後の状態。まだ何の変哲もない。

 

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●さて、本当はここからが本論

読者の皆さんは恐らく喜寿よりはお若いと思いますが、迫り来る「死」にたいする思いはゼロではないと思います。内心でどのように向き合っておられるでしょうか。

先週の土曜日の朝日新聞Be版への読者の投稿で死への恐怖を解決する方策についてのアドバイスを求める投稿が載っていました。この方は20代女性。自らの死でなくて、死に係わることが震えてどうしようもなくなるほど怖い。そのため身内の葬儀にも出れないほど。まぁ、感受性の問題だとは思うが、結局は死の恐怖が根本にあるのだと思う。

これに対する経済学者の回答をよむと、いろいろ巧みに比喩を用いているが、早い話「死」から目をそらしなさいといってるのと同じと読み取れた。これは御釈迦さんの説教と同じと思う。弟子の「死んだらどうなるんですか。」と言う問いに、「いまだ自分は生にたいしてよく分かっていない。なのに死にたいしてどうして理解することが出来ようか。」とお答えになったそうである。これは言外に、そんな無駄なことを考える暇があったら、どう生きるかもっと真剣に探求しなさいという意味を秘めている。

上記の新聞の回答者は、正岡子規の「病床六尺」を引用して、「自分の人生を生き抜くことことで死の怖さを乗り越えられることを教えてくれます。・・・」と結んでおられる。

これは新聞用のきわめて優等生的な答えです。これで「死とは何ぞや」というきわめて根源的な問いと悩みを払拭できるだろうか。出来る方は投書などして来ないだろうと思います。

一歩進めて、この問いへの解答があったとしてそれを分類するととりあえず次のようになると思う。

①完全唯物論型(=霊魂、死後生なし型)

死とは無になること。灰が残るだけ。

②宗教的情緒型(=霊魂、天国、地獄あり型)

さて私がここで強調したいのは、①、②とも頭からの「決め付け」型であるということです。たとえば、①について言えば、非科学的の一刀両断で「科学」のまな板に乗らない物は全て切り捨ててしまうことが前提になっています。いわば科学という新興宗教型。②は伝統宗教の教えを教本どおり忠実に信じる型。

①と②で満足できれば、「死とは何ぞや」などと悩む必要はありません。すくなくとも私は満足できなかった。なぜかというと、お仕付けでない「事実」を、信仰でなく「知識」として得たいからです。

この型はあえて言えば③理性追求型とでもいえるかもしれません。理性というとイコール「科学」と短絡しそうですが、対象が対象だけにいわゆる科学的手法という呪縛から解き放たれたもっと自由な発想が必要になります。

③の答えはどうやって求めたらよいか。じつは過去150年くらいありとあらゆる書籍、文献が発行され、最近では書棚一杯に並んでいます。(たとえば「ジュンク堂」など大型書店)これらを手当たり次第読破して、自分の理性が受けいれられる思考を構築する、これが正攻法です。私はこれを30年近くやってきて、「知識」と確信する答えを身につけました。誰でも実行すれば自らの理性に合致する回答を見つけることが出来ると確信しています。